【読書亡羊】本当は怖いモディ首相の「寝てない自慢」と「熱い胸板自慢」 湊一樹『「モディ化」するインド』(中公選書) その昔、読書にかまけて羊を逃がしたものがいるという。転じて「読書亡羊」は「重要なことを忘れて、他のことに夢中になること」を指す四字熟語になった。だが時に仕事を放り出してでも、読むべき本がある。元月刊『Hanada』編集部員のライター・梶原がお送りする時事書評!

インドの何を知っていますか

勝手に親しみを持ち、勝手に期待して勝手に盛り上げ、実際の姿を知って失望する。日中国交正常化以降、しばらくの間日本が中国に持っていた親近感と、その後の反中感情の起こりは、実際のところこうしたものだったのではないか。

確かに中国は「韜光養晦」戦略で野心や能力を隠しながら国力増強を図ってきた面がある。日本としては気づいたときには防衛費もGDPも抜かれ、中国は海洋進出を大っぴらに試みるようになり、日本の対中感情があっという間に悪化した、という経緯はある。

だが最も問題なのは、日本が実態としての中国をきちんと分析することなく、中国大陸の文明への憧れや「日中友好」「一衣帯水」といった美辞麗句を前に勝手なイメージの中国を作り上げていたことにこそある。

わかる人にはわかっていたのだが、日本社会全体としては中国の本性、野心に気付くのが遅れることになったわけだ。

これは日本だけの問題ではないが、実は同じように「勝手に期待して親近感を抱いている」可能性が高い国がある。ほかでもない、インドである。

まさか、QUADの一角をなし、対中包囲網に参加しているあのインドが? 安倍総理をあんなにも熱烈にもてなしてくれたモディ首相の国を、中国と同列に語るのはおかしいのでは? と驚かれる向きもあるかもしれない。

だが湊一樹『「モディ化」するインド――大国幻想が生み出した権威主義』(中公選書)を読むと、少なくともインドという国やモディ首相について「私たちは何も知らなかった」ことを突き付けられることになる。

インド政界を牛耳る金力と筋力

民主主義に基づく政治を行っている、とされるインド。仏教発祥の地で、カースト制度など古い制度を温存しつつも、トップクラスのIT技術者を数多く輩出し、インド系の欧米人はイギリスのスナク首相やgoogleのピチャイCEOなど、国際社会で能力と存在を際立たせている。そうしたイメージで読み始めると、いきなりインド政治の驚きの実情にぶつかる。

インドの政界には「金力」(資金力)と「筋力」(暴力)にものを言わせてあまたの犯罪行為に関与してきた政治家(より正確には、政界に進出した犯罪者)が多数いることが、以前からよく知られている。

湊氏はそう書くが、そもそもこのこと自体、よく知られてはいないのではないか。

そんなインド政界で抜群の存在感を示しているのがモディ首相なのだが、本書では一冊を通じて、いかにモディ首相が民主主義のあるべき姿を破壊してきたかを余すところなく指摘している。

反モディ的論調を許さない権威主義的な面など問題山積といった形だが、特に印象的なのはヒンドゥー教至上主義によるイスラム教の排斥と、情報統制についてだ。

前者については、モディ首相がグジャラート州知事だった2002年に起きた列車炎上事故を口実とする、イスラム教徒の殺害事件があげられる。事故を「イスラム教徒がヒンドゥー教徒を攻撃するために起こしたものだ」として、イスラム教徒全体をテロリスト呼ばわりし、暴動を治めるどころか火に油を注いだという。

この時期は2001年の同時多発テロの影響で、世界中でイスラム教徒がテロリスト扱いされていた。中国でもイスラム教徒の多いウイグル人がテロリスト扱いされ、弾圧が正当化されていたのと軌を一にする。

中国のウイグル人に対する弾圧は人権問題として国際社会の目も厳しくなっているが、インドに対してはどうだろうか。「インドの多様で豊潤な宗教文化」というイメージが、こうした理解を妨げているのではないだろうか。

インドの本質は中国に近い

モディ政権下のインドに対しては、情報統制についても中国との近似を指摘せざるを得ない。モディ首相就任以降、インドでは政府による検閲もメディアによる自己検閲も急速に悪化しているという。

〈国内については、主要メディアのほとんどが政府の言い分をそのまま伝えるだけの存在になっている〉上に、〈欧米社会が安全保障分野での協力や経済分野での関係強化を重視して、インドの権威主義化を表立って非難することを避けている〉となれば、インドの問題は中国国内の問題以上に見逃されがちになる、ということになってしまう。

記者会見にまつわるエピソードには思わず苦笑してしまった。なんと、モディ首相が記者会見に応じたのは政権1期目の5年間ではわずかに1回、2期目に入って以降は一度も記者会見に応じていないのだという。

また、国内では中国とは違ってツイッターなども使えはするが、折に触れて国内での遮断や社員の自宅の家宅捜索などをちらつかせて圧力をかけていた。映画や衛星放送などによるプロバガンダにも余念がなく、否定的な意見は徹底して取り締まられる状況にあるという。

こうした状況から考えると、湊氏は今後、インドに入国できなくなるかもしれない。その点でも現在のインド社会はかなりの点で中国に近いといえるだろう。

モディが〝独裁者〟になる日

実際に、本書が指摘するようなモディ政権、インド政府のウェブを使ったプロパガンダの一端が垣間見える事例が日本にも飛び火している。

筆者の湊氏が本書を紹介する動画をツイッターに投稿したところ、インドのモディ支持者らしき人々が殺到し、批判を浴びせたという(湊氏のアカウントは凍結されたとの情報もある)。

本書を読んだうえでそうした現象まで起きているとなると、いくらインドが対中包囲のコマの一つになりうるとしても、インドという国やモディ政権に対しては失望を禁じ得ない。

だが、ここで一気に失望する「だけ」では、本書を読んだ意味が半分くらい失われてしまうようにも思う。なぜなら、その失望の大半は「勝手な期待で思い描いていたインド」のイメージが裏切られたことによるものだからだ。

冷静な判断が必要とされる国際政治の場で、インドがたとえロシアと蜜月関係にあったとしても、「対中包囲網の要」と考えて関係を強化するという判断はありうるのだろう。好き嫌いではなく、必要性に応じて連携するのが外交や安全保障の要諦だからだ。

モディ首相のやり方はともかく、中国以上の14億人もの国民(国勢調査は2011年以降行われていないというが)を束ねるには、きれいごとの民主主義では立ち行かないのだろう。

モディ上げのSNS上の書き込みに「彼は22時間働き、2時間しか寝ない」といった「寝てない自慢」があり、モディ自身も「厚い胸板」を強い指導者のアピールポイントとしていたとの指摘には思わず笑ってしまった。

あらゆる手を用意周到に巡らせて、14億人の頂点に立ったモディ首相の人物像にも、ある意味では大いに興味を惹かれるところではある。

インドの存在感が増しているのは事実であるからこそ、モディという〝独裁者〟になりつつある人物と、そのリーダーが率いるインドという国の本質を押さえておく必要はあるだろう。まずは本書を読んで「え、そうだったの」と驚くところから始めたい。

梶原麻衣子 | Hanadaプラス

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