【定年後に読みたい】池上彰、弘兼憲史、ロバート・キャンベル…著名人たちにインパクトを与えた、珠玉の「名著」3選

世の中には無数の書物があります。定年後、ようやくゆっくり読書を愉しめると喜んだのもつかの間、「さて、何を読もう」と悩んでしまう人も少なくないのではないでしょうか。文藝春秋・編『定年後に読む不滅の名著200選』より、日本を代表する各界の著名人が推薦する、珠玉の名著を紹介します。

ジャーナリスト・池上彰氏が「衝撃を受けた」一冊

『読書について』/ショウペンハウエル(斎藤忍随訳・岩波文庫)

子どもの頃から大の読書好きだった私が大学入学と共に手に取ったのが、この本です。なにせ題名からして『読書について』です。読書の大切さ、喜びについて記されているのだろう……と思ったのですが。

いきなり出てきたのが、次の文章です。

「読書は思索の代用品にすぎない。読書は他人に思索誘導の務めをゆだねる」

「読書は言ってみれば自分の頭ではなく、他人の頭で考えることである」

「読書は、他人にものを考えてもらうことである。本を読む我々は、他人の考えた過程を反復的にたどるにすぎない。習字の練習をする生徒が、先生の鉛筆書きの線をペンでたどるようなものである。だから読書の際には、ものを考える苦労はほとんどない。自分で思索する仕事をやめて読書に移る時、ほっとした気持になるのも、そのためである」

ハンマーで頭を叩かれるような衝撃でしたね。読書をすることは思索を深めることであり、ひいては自らの思想を作り出すものだと考えていたのですから、それが全面的に否定されたときのショックといったらありません。

問題は読書ではない。どのような姿勢で読書に臨み、読書の後、どれだけ自身が思索するかによるのだ。以後、これを肝に銘じるようにしたつもり……なのですが、そんなにたやすいことではありません。いつしか忘却し、安逸な読書の喜びに耽っています。本人が楽しんでいるんだから、ショウペンハウエル先生、堅いことを言わないでくださいよと文句のひとつも言いたくなります。

そうだ、ショウペンハウエル先生の言うことをそのまま受け止めるのも、「他人にものを考えてもらうこと」ですよね。だったら、こんな19世紀の哲学者の発言にとらわれることなく、今後も堂々と読書を楽しめばいいのです。

とはいえ、こんな箴言が心に残ります。

「書物を買いもとめるのは結構なことであろう。ただしついでにそれを読む時間も、買いもとめることができればである」

残り少なくなってきた人生、何を読むべきか、今度こそ自分の頭で考えたいものです。

漫画家・弘兼憲史氏が「激しく共鳴した」一冊

「セヴンティーン」/大江健三郎(新潮文庫/『性的人間』所収)

漫画家の日常は想像以上に忙しい。寝る時間を惜しんで執筆に勤しむ生活のなかで、読書をする時間などまずない。新聞を読む時間すらない。情報収集といえば、執筆しながら流しているニュース番組の“耳学問”がせいぜいだ。社会派漫画の描き手としてお恥ずかしい限りだが、それが週刊誌で連載を持ち続ける現実でもある。

そんな私も学生時代には手あたり次第に本を読んだ。高校時代には古典的な日本文学を、そして大学時代には同時代の先鋭的な作家の小説を好んで手にしたものである。

大学時代によく手にしたのは大江健三郎氏の著作だ。きっかけは大学在学時の一九六七年に発表された氏の代表作『万延元年のフットボール』と記憶する。句点の少ない、独特な文体の妙に魅せられ、そこから初期の作品へと遡って耽読していった。

なかでも思い出深いのは、初期作品集『性的人間』(新潮文庫)に収められている短編「セヴンティーン」だ。同作品は、発表前年の1960年に起こった日本社会党委員長・浅沼稲次郎刺殺事件の犯人、17歳の右翼少年・山口二矢を主人公のモチーフとする。

主人公の「おれ」は17歳の誕生日を迎えたばかりの高校生である。大江氏は「おれ」の内面の焦燥はもちろんのこと、成長する肉体を持て余して自慰行為を繰り返す性的側面までをも赤裸々に描く。やがて「おれ」は、右翼の政治結社に身をおくことで、止めどなく湧き出てくるエネルギーのはけ口を見つけることになる──。

安保闘争等、イデオロギーがいつも世間のどこかを騒がせていた時代だ。

この小説もその波に吞まれ、特に第2部の「政治少年死す」は山口二矢少年を著しく汚すとして、右翼団体から激しい攻撃にさらされた。結果、「政治少年死す」は、どの単行本にも収録されない“幻の作品”となっている。

しかし私は、この創作を単なる政治小説として読まなかった。17歳の青少年が、熱情をコントロールできず、ときに怒りを持ち、焦燥感に駆られる狂おしい姿は、いつの時代にも見られるものだろう。

「おれ」の場合、それが時代の要請もあって、イデオロギーに辿り着いたのだ。「セヴンティーン」の根本には、青春小説としての普遍的なテーマがあり、だからこそ若かった私は、この小説に激しく共振したに違いない。

漫画は、命果てるまで書き続けるつもりで、デスクの上でペンを握りながら斃れるのが私の希望である。

それでもいつか、大学生の頃と同じように、じっくり「おれ」と向き合ってみたいと思う。そのとき還暦を超えた私からいったいどんな感情が溢れ出るのか。それが知りたくて、触れられぬほどの熱を帯びたあの17歳の政治少年、セヴンティーンにまた会いたいのだ。

日本文学者・ロバート・キャンベル氏が、長年愛読する一冊

『桜の実の熟する時』/島崎藤村(新潮文庫)

明治23年(1890)初夏。19歳になった主人公岸本捨吉は身も心も健康にしてすこぶる多感。情欲の淵に沈みがちな彼であったが、この度ぎりぎり身を淵から引き揚げ、まじめに勉強しようと自分へ誓いを立てている。

読者には恋の実態をあまり知らせないまま、小説は出発する。というより、捨吉は出発する。冒頭の1枚目から東京の中をひたすら歩く。編み上げの革ブーツから下駄、下駄から草鞋に履き替えながら、とにかく起伏に富む明治東京の町中を歩きまくっている。

高いところは高輪台、ここに太陽が隅々まで射し込み、心の充実を求めに集う人々のための教会とミッションスクールが建っている。平坦なところはせせこましい日本橋界隈、10代の始めから彼のことを住み込み書生として養育してきた商人一族「田辺の家」があり、「小父さん」と呼ばれる主人との間に進路について駆け引きを展開する。

風のなかを歩くことで心を押し広げ、鬱々とした気分をほぐす術を捨吉は知っている。伴走するような感覚で我々も、若者特有の背伸び感と恐れ、疼くような自由への願望、その挫折を一本一本ちがう通路を眺めながら、追体験する。

たとえば冒頭のシーン。品川停車場の手前から高輪台を上っていくと複数の坂道があり、捨吉は広大な旧大名下屋敷の中を突っきっていく。捨吉には数少ない静かでプライベートな空間になっていると同時に、ここは育てられた日本橋のことを思いださせてくれる。下町に帰ると温かい。

しかし人口と活気と寂しい思い出がギュッと詰まっているので、歩きながら過去が静かな「今」に染みこみ、未来までを悲しい色に染め上げようとする。いったん就職する女学校に通じる牛込見付も、「捨吉の好きな通みち路」の一つである。

『春』や『新生』などと同じように、この小説は作者自身の体験をなぞるようにできている。パリに渡る前から外遊中、帰国の後に筆を執り続け、大正8年に単行本として刊行した。

私はむかし、初めて読んだときに若い作者の「事実」を一々年譜に照合して点検しながら、読み進めていった。今は逆だ。ストーリーの成り立ちが気にならず、むしろ青年の行動半径がかれの志とどう結び合うかとか、風景の変化などに心を打たれることが多くなってきている。

小説の中を歩くような、不思議な浮揚感がうれしい。

文藝春秋・編

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