山村隆太「ロケ地で過ごした1カ月弱がなかったら、flumpoolが今作っている楽曲も変わっていた」 映画初出演を通して感じた変化【インタビュー】

ロックバンド「flumpool」のボーカリストとして活躍する山村隆太が、6月7日から上映される映画『風の奏の君へ』で映画初出演を果たす。本作は、お茶の名産地である岡山県美作地域を舞台に、ピアニストの女性と茶葉屋を営む兄弟が織りなすラブストーリー。山村は、家業の茶葉屋を継いだ兄・淳也を演じる。山村に撮影時のエピソードや映画出演への思いなどを聞いた。

山村隆太 (C)エンタメOVO

-本作は、山村さんのスクリーンデビュー作ですね。

そうなんですよ。いちミュージシャンに、こうしてお声を掛けていただけることは、本当に光栄なことだと感じています。実は、最初に台本をいただいたときは、自分にできるかなとすごく不安があったんですよ。台本を読むと淳也の号泣シーンがあったので、素人に毛が生えたようなレベルの自分にできるのかなと、すごく悩みました。ただ、スタッフの方とお話をさせていただく中で、夢に破れて挫折して、地元に帰って新しい人生を送ろうとしている男を演じるのだと聞いて、自分と重なるところがあって。僕も機能性発声障害になって以前、1年くらい活動休止したことがあったんですが、そのときに、「ああ、もう歌うことができないんだ」と諦めたり「音楽を辞めたら次に何をしようかな」と考えていました。それを知ってくださったスタッフの方から「その経験をそのまま役に入れて伝えてください」と言っていただいて、それならばとお引き受けすることにしました。もし、経験したことがないことを演じなければならないとなったら、もちろんそれはプロの方が演じた方が良いと思うのですが、「自分の経験を使ってください」とおっしゃっていただいたこと、それから普段は役者をやっていない僕が出ることで映画の中に違った要素を求めているのならば、挑戦させていただこうと。号泣シーンに対しても、自分の人生を賭けて感情を出していくなら、ぜひ演じてみたいと思ってはじまりました。

-では、淳也に共感するところも多かったのですか。

そうですね、似ているところが多かったです。家族や大切な人に素直になれないところや、クールぶっていて実は自分を守っているだけなところはまさに自分だなと(笑)。

-意外でした。山村さんは淳也と違って、いつも笑顔で柔らかい印象があったので、ご自身とは全く違うタイプの人間を演じている感覚だと思っていました。

よく言われます(笑)。誰にでも表向きの顔と裏の顔ってあるじゃないですか。僕も、表向きはとっつきづらさを見せたくないと心がけていますが、裏ではそうではない部分もあります。愛想よくできるし、器用に何でもこなせる人間に見せたいだけなんです。なので、淳也の弱さや欠点を隠そうとする姿はまさに僕です(笑)。本音の部分ではすごく共通するところがあります。

-不安だったという号泣シーンの撮影はいかがでしたか。

前日は緊張して寝れなかったです。ただ、同時にすごくやりがいのあるシーンでもありました。これほど逃げたくなることはないですから。「自分は感情を爆発するほどの人生を生きてきたのか。それほどの思いを映像を通じて伝えられる生き方をしてきたのか」と自問自答してしまい、それでもそこに食らいつこうとしていたのでやりがいは大きかったです。自分の人生を賭けて、挑ませてもらいました。

-ピアニストの里香を演じる松下さんの印象は?

音楽大学出身でミュージシャンでもある松下さんは、きっと僕とは生きている世界が違うんだろうなと考えていましたが、実際にお会いしたら、昔から知っているような親近感を感じました。孤独にピアノと向き合う方で、でも周りの人を大切にする思いを感じることもありました。それこそが松下さんの生き方なんだろうなと思います。

-今回、主題歌「いきづく feat.Nao Matsushita」を松下さんとコラボされましたね。

まさに僕がこの曲に込めたかった思いを、松下さんが第一声目で、何の注文もせずに、体現して歌にしてくれました。逆に僕たちがそれに引っ張られて、こういうふうに歌っていこうとまた新しいアプローチができましたし、すごく刺激的でした。

-この「いきづく」という楽曲には、どんな思いが込められていますか。

今回、撮影で美作に1カ月ほど住まわせてもらっていて、自然に触れることがすごく増えていって、東京ではなかなか持てない時間を過ごさせていただきました。一人で山でボーッとして、気持ち良い春の風が吹いてきて、それが草花を揺らしているのを見て、風に体が包まれたような気がしたんですよ。里香と淳也もきっとそういう関係性なんだろうなと思うようになり、普段は見えない自分の思いも、大切な人と生きることによって気付くことがある。そうした思いを描きました。この作品の最後に、里香と淳也を演じた二人が一緒に歌った「いきづく」がエンドロールで流れます。劇中では言葉を交わすシーンは少ないですが、歌を歌ことによって、お互いの命を確かめ合っているかのようなシーンになればと思い、“生きることに気付く”という意味で「いきづく」というタイトルにさせていただきました。

-そうすると、山村さんが淳也を演じて、そして撮影を通して感じたことが楽曲に反映されているのですね。

そうですね。ロケ地で過ごした1カ月弱がなかったら、flumpoolが今作っている楽曲も変わったんじゃないかなと思います。撮影は、コロナ禍が落ち着いてすぐに行ったのですが、コロナ禍も含めて考える時間があったというのは僕にとって大きなものでした。何となく生きて、生きがいが見つけられない。何で生きているんだろうと感じて、知らない間に年月が経ってしまう。コロナ禍でそんな時間を過ごしていたので、自然の中で考える時間をもらえたことで、自分の中の感情や、自分の中に確かに息づいているものに気付かされたように思います。

-バンド以外の活動が音楽にも反映されるというのは、お芝居をやる意味の一つにもなるのでは? 良いルーティンだなと感じました。

確かにそうとも言えますが、ものすごく大変(笑)。僕には、お芝居はできないと何度も思いましたし、だからこそ生きている実感が生まれたようにも思います。好きなことや得意なことばかりやっていると何の壁もないんですよ。でも、人や夢にぶつかることも大事だなと感じさせられました。

-なるほど。では本作も、お芝居や映画への思いがあってのご出演ではなく、この作品だからこそのご出演だったのですね。

本当にそうです。ミュージシャン山村の生きてきた人生が淳也と何か接点があって、それが必要とされているならできる。僕たちはそういう存在でしかないと思っています。僕は、毎回、映画に呼んでもらうというレベルで演技ができないという自負がありますから(笑)。皆さん、僕とは別次元の世界でお芝居をされているので、「異物が欲しいならいけますが、きちんとした演技を求められているなら僕は違います」というスタンスです。それは今回、映画のお話をいただいたときも同じです。

-今回、お芝居をするにあたって、大谷健太郎監督とはどのようなお話をされましたか。

監督からはとにかく「感情を見せないで」と言われていました。視線が動くだけでそこにある感情が生まれてしまうから、それも出さないで欲しいと。そうすることで、殻に閉じこもっていた淳也の変化が見えてくる。そのコントラストを強く描くためにも、「顔色一つ変えないでくれ」と監督は常に言われていました。

-難しいお芝居ですね。

見せていないつもりでも自然と動いてしまいますからね。それくらいシビアに監督は淳也という役を作っていたので、彼の変化は明確に感じていただけるのではないかなと思います。

-最後に公開を楽しみにしている読者にメッセージをお願いします。

音楽が引き立つ映画だと思っています。松下さんもピアニスト役を演じていますし、音楽が感情に訴えかけてくる物語になっていると思います。音楽は日頃、言葉にできなかったり、表情には出せなかったりするものを伝えられる、心と言葉の間にあるものだと僕は考えています。この作品をご覧になった方が、たとえ言葉にできなくても「命」に対して、何か心に残ればいいなと思います。里香と淳也と渓哉という3人がぶつかっていく物語ですが、人と人がぶつかるということは決して悲しいものではなく、すばらしいことなのだと教えてくれる映画だと思うので、ぜひたくさんの方に見ていただけたらうれしいです。

(取材・文・写真/嶋田真己)

映画『風の奏の君へ』は6月7日から全国公開。

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