河合優実と一緒なら杏を作っていける『あんのこと』入江悠監督インタビュー

機能不全の家庭に生まれ、虐待の末に薬物に溺れる少女・杏が、人情味あふれる型破りな刑事や更生施設を取材する週刊誌記者をはじめとした人々に出会い、生きる希望を見いだしていく。しかし、微かな希望をつかみかけた矢先、どうしようもない現実が彼女の運命を残酷に襲う…。『あんのこと』は2020年6月に掲載された「少女の壮絶な人生を綴った新聞記事」を基に描いた衝撃の人間ドラマ。企画から関わり、脚本を書いた入江悠監督に作品への思い、キャストについて、本作が監督に与えた影響などを聞いた。(取材・文/ほりきみき)

想像しながら追体験して役を作っていった河合優実

──原案となる新聞記事を読んで、その内容に衝撃を受けたことが企画のきっかけとうかがいました。

新聞記事は二つあって、一つは杏のモデルになった女性についての記事でした。彼女は幼い頃から母親の虐待を受け、学校も満足に通わせてもらえず、売春を強いられ、覚醒剤依存症に陥ってしまいました。それでも、もう一回学校に通い出して、前向きに進もうとした矢先、コロナ禍に入ってしまい、可能性を閉ざされてしまったのです。読んだときにやり切れない気持ちになりました。

もう一つがその女性の更生に尽力していた刑事が別の事件で捕まったという記事でした。こんなことが起こり得るんだという衝撃が大きかったです。

コロナ禍で自分自身も息苦しさだけでなく、自分は強いつもりだったのが意外と脆いんだということを突き付けられ、杏のモデルになった女性はどうだったんだろうかと想像してみたくなりました。

──監督の作品は女性を主人公にしたものが少なく、ほとんどは男性が主人公です。記者の桐野が抱えたジレンマはある種、監督ご自身の皮膚感覚と近かったとのことですので、桐野の視点で描いた方が監督としては脚本を書きやすかったのではないでしょうか。

杏のモデルになった女性は東京のどこかですれ違っていてもおかしくないような人です。そういう人に対して、自分が全く思いを馳せたことがなかったことが、自分としてはショックでした。全然わからない、自分からは遠い存在だと思っていましたが、本当はもっと近いところ、例えば隣の部屋に住んでいてもおかしくない人なのではないかと思ったのです。

自分は杏とは違う家庭環境で育ってきました。どちらかと言えば、恵まれた環境だったと思います。それでも彼女のことをもっとよく知りたい、第三者の目線ではなく、彼女と一緒に歩いていきながら、この作品を作るという姿勢でいたいと思ったのです。

もう一つ、この企画はスタートの時点で河合優実さんを迎える話がありました。河合さんは以前から知っていて、素晴らしい俳優です。河合さんだったら一緒に杏を作っていけるという確信がありました。それに、おっさんの僕よりも河合さんが想像した杏の方がより真実に近いものができると思い、河合さんに委ねてみようと思ったのです。

──脚本開発はいかがでしたか。

昔からジャンル映画が好きで、これまでの作品は物語に貢献する登場人物がいて、起承転結が明確でした。この作品も基になった新聞記事があり、モデルになった女性がどういう生い立ちで、何が彼女の身に起きたのかはわかっていましたが、撮り終えたときに自分が何を感じているか、取材を始めた時点では何もわかりませんでした。他者の人生を勝手に総括し、結論を与えるのは失礼だと思ったのです。その意味では初めての挑戦でしたし、これまでのノウハウはすべて捨てようと決めて臨みました。

ただ、主人公である杏という人に寄り添い続けていれば、何か見えてくるような気はしていました。幸いなことに、この作品は恵まれた体制で映画作りができたので、スタッフ、出演者みんなで杏という人物がどういう人なのかを想像し、“こういうシチュエーションにいたら、杏はこういうことをするんじゃないか”といろんなバリエーションの杏の表情を撮らせてもらえたので、少しずつ杏という女の子に近づけたということはあります。

──なぜ杏という名前を付けたのでしょうか。

モデルになった女性の記事には、「ハナ」という仮名がついていました。その響きにふわふわしたものを感じ、軽やかでいいなと思ったので、それに近いものを考えたときに、成瀬巳喜男さんの『杏っ子』(1958)という作品を思い出しました。ある女性の半生が描いたもので、主人公を演じた香川京子さんが素晴らしかった。そこから「杏」っていいんじゃないかなと思って付けました。

それと、五十音の最初と最後の文字を使っていることで、すべてを包括する名前でもあります。僕は考えていなかったのですが、後からスタッフに言われて、ああ、そうだなと思いました。

──河合さんとの役作りはどのようにされましたか。

今回はモデルとなる実在の人物がいたということで、ある種の重圧というか、演じる上での責任みたいなことを感じるだろうなと思っていましたし、実際、感じていたようでした。そこで、杏のモデルになった人の情報や、僕が取材で知り得たことはなるべく河合さんにもお伝えしました。

さらに、新聞記事を書かれた記者の方にお目にかかってお話を聞いたり、薬物に関する取材をしたりする際は河合さんにも同行してもらい、杏はこういうことを感じたのではないかということを河合さんに追体験してもらいました。

また、衣装合わせでは、杏はこういう服を着て、こういう靴を履いて、街を歩いていたのではないかということを一緒に探っていきました。そうしていく中で少しずつ、杏という人物像が河合さんの中に芽生えていったのだと思います。

撮影前にスタッフだけでカメラテストをするのですが、この作品では河合さんにも来ていただいて、実際に着る衣装やメイクをしてもらい、カメラを回しながら杏が住んでいる団地の周りを歩いてもらいました。そのときに撮影の浦田さんが「河合さんがこんな歩き方をしていますね」と河合さんが普段とはちょっと違う歩き方をしていることに気が付いたのです。

それによって、こういう団地のこういう道なら、杏はこういう風に歩くんだなということがみんなで共有できました。何より、河合さんの中に杏の気持ちや団地の空気感が浸透した気がして、「これでもう撮影できる」と確信して、クランクインに臨みました。

──追体験することで河合さんご自身が杏を作っていったのですね。

そうですね。僕も河合さんも杏のモデルになった女性に会っていないのですが、会っていたとしても、モデルになった女性をそのまま模倣すればいいわけではありません。彼女がどんな人で何を考えていたのかを想像することが大事。準備や撮影を通じて、一つずつ丁寧に生きたのがよかったのだと思います。

余計なキャラクター付けはいらないと直感で悟った稲垣吾郎

──刑事の多々羅を佐藤二朗さん、記者の桐野を稲垣吾郎さんが演じています。

多々羅と桐野に関しては僕自身がおっさんなので想像しやすいところがありました。多々羅はがさつで、欲望に忠実で、昭和によくいた男性。僕自身もそういう大人をよく見ましたし、佐藤さんもたくさんご覧になってきたと思うので、すんなり掴めました。

桐野に関してはいろんな記者の人に、記者はどういう生活をしているのか、どういう風に取材対象に近づいていくのかといった話を聞かせてもらって、掴んでいきました。

──佐藤さん、稲垣さんは脚本を読み込んで役を作ってきてくれたのでしょうか。

作り込むという感じではありませんでしたね。特に稲垣さんはすごくフラットにニュートラルな感じで現場に入ってくれました。余計なキャラクター付けはいらないと直感で悟られていたのかもしれません。観客に近い目線でいてくれたことがよかったですね。

桐野が段々と杏に近づいていく過程がすごく自然でした。具体的にここで彼女に興味を持ったという芝居ではなく、最初は自助更生グループのサルベージ赤羽にふらっと来て、杏を見ていますが、徐々に杏に関心を持っていくといった感じで、少しずつ温度感が上がっていくグラデーションが見事でした。わかりやすくない役なので、演じるときに不安があったかもしれませんが、そのわかりにくさみたいなことをちゃんと引き受けてくれました。

印象的だったのは多々羅との面会のシーンで、悩みを吐露するところ。2テイク撮ったのですが、「1回目の方がよくできました」と稲垣さんがおっしゃったのです。僕も監督として同じことを感じたので、気持ち的なところも客観視できている方なんだなと思いました。

──佐藤さんはいかがでしたか。

佐藤さんとお仕事するのは初めてですが、脚本を読んで繊細な作品であることはちゃんとわかっていらっしゃって、いつものアプローチとは違うんだろうなという印象は受けました。

例えば、ちょっとだけ乱暴な刑事を表現するために、路上に唾を吐くとか、タバコのポイ捨てをしてもいいかと尋ねられたのです。そういったことをする人を最近は見かけませんが、昔はよくいましたよね。

撮影中、台本に何かを熱心に書き込んでいらっしゃるなと思ったら、どこでご自身がタバコのポイ捨てをしたのかをメモされていました。投げ捨てをしたシーンが続いてしまうとくどくなるので、やり過ぎないように、そこのバランスをご自身で調整されていたのです。小さな動きですが、すごく繊細に、全体の中のどこでしたのかをちゃんと把握されていました。

「ここはワイシャツに汗があってもいいんじゃないですか」と映るか映らないかわからないところにまで、多々羅として提案をしてくださったこともありました。きっと、警察署やラーメン屋など、それぞれの場所で多々羅ならこういう風に居るんじゃないかということを考えて芝居をするのがお好きなのでしょうね。すごく楽しそうでした。

少しのことが大きく見えてしまう世界の映画なので、佐藤さんがそういうアプローチをされているのはすごくうれしかったです。また、今回は重いシーンが多いのですが、河合さん、稲垣さんとの3人の芝居では、佐藤さんがムードメーカーとして場を和ませてくださるところもありました。

──杏の母親を河井青葉さんが演じています。

河井さんの負担は相当大きかったと思います。暴力を受ける側の河合さんよりもむしろ精神的なストレスが大きかったかもしれません。

僕は普段、リハーサルをやらないのですが、河井さんと河合さんには事前に何回か来ていただきました。虐待のシーンがただのアクションになってはいけないので、“母から娘への暴力にはどういう暴力があるのか”、“なぜ暴力があるのに、杏は逃げ出さずに実家に帰るのか”といったことも含めて、おふたりとディスカッションをしながら、リハーサルをしました。河井さんが「今、自分はこういう風に感じているから、こうしてみたい」といったやり取りをリハーサルの段階でやらせてもらったので、撮影は問題なく進めることができました。

──杏の母親はなぜあそこまで娘に暴力を振るうのか、母親自身の育ちが気になりました。

あの家族にはおばあちゃんもいて、女性3代で住んでいます。この作品のお母さんがどういう生い立ちだったのかサブテキストを作って、河井さんや河合さんにお渡ししました。一つ言えるのは、加害と被害は世代を超えて連鎖しがちであるということ。母親も彼女の母親から虐待を受けていた可能性はあるのではないかと思います。

──そのおばあちゃんが孫には優しいので、母親としては葛藤があったのかもしれませんね。

杏の母親は自分の思うようにいかないから、娘に怒りをぶつけているところもある。この作品では河井さんは本当に大変なシーンばかりでした。

ただ、最後に杏と対峙するときの河井さんの表情がすごくいい。母親というか、一人の女性としてどうしょうもなさを自覚しているのを感じて、僕は河井さんの表情に救われた気がしました。誰にも弱さがあって、その弱さを認めたくないから他者に暴力を振るってしまう。そういった感じのすごく複雑な表情をされていました。

──この作品は監督のフィルモグラフィにおいて、どのように位置づけられますか。

どんな位置づけになるかは公開して、観客の方々から感想をいただいて、段々わかってくるのだと思います。ただ、編集を終えたときに、“杏という女性が本当に隣にいるような感覚で作っていた”ということを感じました。この感覚はこれまでいくつも映画を作ってきましたが、初めてでした。これまでは“どこか架空の主人公”という認識だったのです。

以前はまったく輪郭が見えなかったけれど、街のどこかですれ違っていただろうし、こういう人は今もきっといるだろうし、今日もすれ違ったかもしれないという実感を持てたのは、僕にとってすごく大きいことでした。

──これからの映画作りに変化がありそうですね。

それはあると思います。今回はモデルになった女性がいて、その方に「失礼がないように」と祈るような気持ちを河合さんと共有しながら撮影していましたが、本来ならばまったく架空の登場人物であってもそういうことを思わないといけないんだろうなと思いました。そもそも映画は主役が人である以上、人への距離感を監督としてもっと考えなくてはいけないと思いました。

<PROFILE>  
入江悠 / 監督・脚本 
2009年、自主制作による『SR サイタマノラッパー』が大きな話題を呼び、ゆうばり国際ファンタスティック映画オフシアター・コンペティション部門グランプリ、第50回映画監督協会新人賞など多数受賞。2010年に同シリーズ『SR サイタマノラッパー2 女子ラッパー☆傷だらけのライム』、2012年に『SRサイタマノラッパー ロードサイドの逃亡者』を制作。2011年に『劇場版 神聖かまってちゃん ロックンロールは鳴り止まないっ』で高崎映画祭新進監督賞。『AI崩壊』(20)で日本映画批評家大賞脚本賞。 
その他の作品に『日々ロック』(14)、『ジョーカー・ゲーム』(15)、『太陽』(16)、『22年目の告白-私が殺人犯です-』(17)、『ビジランテ』(17)、『ギャングース』(18)、『シュシュシュの娘』(21)、『映画ネメシス 黄金螺旋の謎』(23)など。

『あんのこと』6月7日(金)新宿武蔵野館、丸の内TOEI、池袋シネマ・ロサほか全国公開

<STORY> 
21歳の主人公・杏は、幼い頃から母親に暴力を振るわれ、十代半ばから売春を強いられて、過酷な人生を送ってきた。ある日、覚醒剤使用容疑で取り調べを受けた彼女は、多々羅という変わった刑事と出会う。 
大人を信用したことのない杏だが、なんの見返りも求めず就職を支援し、ありのままを受け入れてくれる多々羅に、次第に心を開いていく。 
週刊誌記者の桐野は、「多々羅が薬物更生者の自助グループを私物化し、参加者の女性に関係を強いている」というリークを得て、慎重に取材を進めていた。ちょうどその頃、新型コロナウイルスが出現。杏がやっと手にした居場所や人とのつながりは、あっという間に失われてしまう。行く手を閉ざされ、孤立して苦しむ杏。そんなある朝、身を寄せていたシェルターの隣人から思いがけない頼みごとをされる──。

<STAFF&CAST> 
出演:河合優実、佐藤二朗、稲垣吾郎、河井青葉、広岡由里子、早見あかり 
監督・脚本:入江悠 
配給:キノフィルムズ  
© 2023『あんのこと』製作委員会 

映画『あんのこと』公式サイト|2024年6月7日(金)全国公開

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