男性自衛官、手榴弾の訓練中に死亡 昭和33年以来の事故に「破片を飛ばす兵器」のルーツと恐ろしさ

■昭和33年以来の死亡事故

6月30日、山梨県の北富士演習場において、訓練中に手榴弾が爆発。飛び散った破片によって男性自衛官が死亡するという痛ましい事故が発生した。

死亡した隊員は自分で手榴弾を投げたわけではなく、射撃係という立場だった。訓練のプロセスを確認したり、手榴弾を投擲する号令をかけたりする役目である。また、手榴弾投擲後は遮蔽物の影に隠れることになっており、通常ならば命に関わることはない。陸自の隊員が手榴弾によって死亡したのは昭和33年に発生した事故以来とのことで、イレギュラーな事態が発生しなければ、さほど危険な訓練ではないことがわかる。詳しい事故原因は調査中だ。

この自衛官の死亡原因は「手榴弾の破片が当たったこと」である。手榴弾は映画などでよく見られる武器であり、また「爆弾」のマークは危険や失敗のアイコンとしてお馴染みのものとなっている。が、「手榴弾は破片を飛ばす兵器である」という点は、フィクションなどでも案外ちゃんと描写されておらず、さほど知られていないように思う。ここでは、手榴弾とはどのような歴史と特徴を持つ兵器なのかについてまとめてみたい。

火薬が武器として使われるようになったのは、10~11世紀の中国、五代から宋の時代だとされている。仙薬を合成するための煉丹術によって硝石と硫黄と木炭を合成する黒色火薬が7世紀ごろに生み出され、そこから400年余りの間に火薬を使用した数多くの武器が生み出された。火薬を使った兵器には火炎自体で敵を殺傷する燃焼性火器、火薬の爆発力で敵を殺傷する爆発性火器、火薬の燃焼エネルギーで物体を飛ばして敵を殺傷する投射性火器の3種があるが、960年から1279年まで続いた宋代にはこの3種の火器全てが発明されていたという。

爆発性火器である手榴弾は、この時代の中国では「震天雷(しんてんらい)」と呼ばれていた。これは一種の炸裂弾で、陶器や金属でできた外殻の内部に火薬や金属片を仕込み、火薬の爆発によって発生する爆風と火炎、爆散する破片で敵を殺傷する兵器だった。また、南宋の頃に攻城戦において防御側が使用した兵器として「西瓜炮(せいかほう)」というものもある。

これは麻布で包んだ紙製の容器の中に、火薬と小さな撒菱(まきびし)、それに火老鼠(かろうそ)と呼ばれる木片い細い鉄の鉤針を植えたものを多数入れ、導火線で点火して敵に投げ込むものだった。モンゴル帝国が日本に侵攻した際に使ったという記録が残る「てつはう」も、この類の兵器だったとされる。

■発明された時点ですでに完成された兵器

現代存在する手榴弾の区分に破片手榴弾(炸薬を包んでいる金属製の外殻を火薬によって破裂させ、高速で飛ぶ破片で敵を殺傷する手榴弾)と、攻撃型手榴弾(火薬の爆発による爆風や衝撃波で狭い範囲の敵を殺傷する手榴弾)のふたつがあるが、宋代の中国ではすでに破片手榴弾とほぼ同じものが存在していたことになる。つまり手榴弾は、発明された時点ですでにほぼ完成された兵器だったのだ。

その後、モンゴルの西進やイスラム世界とヨーロッパとの接触により、13~14世紀にはヨーロッパへと火薬が伝馬する。ちょうどそのタイミングで戦われていた百年戦争(1337~1453年)において火薬を使った武器が導入され、14世紀には原始的な前装銃や大砲の使用が見られる。さらに15世紀に入るとヨーロッパでも球状榴弾が出現。いわゆる「爆弾マーク」の元であり、現代的な手榴弾の直接の先祖に当たる存在は、この時期に誕生した。

手榴弾は英語で「グレネード」と呼ばれるが、これは古フランス語の「pomegranate」、もしくはスペイン語の「grenada」に由来するとされる。意味はどちらもザクロで、名称の由来は形状が初期の球状手榴弾に似ていたからとも、種の詰まった果実が内部に爆発物の詰まった手榴弾を思わせたからとも言われている。この由来にちなんで、日本語の「手榴弾」にもザクロの漢字表記である「柘榴」から「榴」の文字が取られている。

■近世ヨーロッパの戦争で普及

手榴弾は近世ヨーロッパにおいて広く使われた。17世紀には手榴弾による攻撃を専門に行う「擲弾兵」という兵科が誕生。当時の手榴弾は鋳鉄製で重く、投擲するのに強い腕力や体力が必要だった上、投擲時には敵に対してできるだけ近寄る必要があった。さらに手榴弾自体の扱いにも習熟が必要だったことから、体格・身体能力・精神力に優れた優秀な歩兵が擲弾兵に採用され、擲弾兵部隊は精鋭として扱われることとなった。現在では消えた兵科だが、精鋭部隊を意味する称号として"擲弾兵"の名称は使われ続けている。

やがて軍事技術の進歩によって「歩兵が敵に肉薄して重い手榴弾を投げつける」という機会は減ったが、第一次世界大戦によって手榴弾は再び脚光をあびる。西部戦線で発生した大規模な塹壕戦では、塹壕に籠った敵を攻撃する手段として、直線的な攻撃を行なう銃器類とともに、塹壕を超えて放物線的に攻撃を加えられる迫撃砲や手榴弾の需要が高まったのである。また、塹壕戦では往々にして石を投げれば届くほどの接近戦が発生したことも、手榴弾の需要を高めた。

第一次世界大戦の初期に使われたのは、手製の即製手榴弾である。ヘアブラシ型と言われるタイプのものは、平たい木の板に缶などに詰めた爆薬をワイヤーで縛りつけ、導火線を取り付けたシンプルなものだ。また、木の板を使わず金属缶に爆弾を入れて導火線を取り付けただけのものもよく見られた。これらの即製手榴弾には釘などが縛りつけられることも多く、これは殺傷力を増すための工夫であった。

戦争が長引くにつれて、手製ではなく工業製品として量産された手榴弾が歩兵の装備として普及することになる。この際に問題となったのが、手榴弾の爆発をどう制御するかであった。安全のために導火線を長くすると爆発までの時間も長くなり、敵に投げ返されるおそれがある。この問題を解決するために採用されたのが、着発信管だった。これは投げられた手榴弾が地面に接触することで起爆する手榴弾で、これならば投げ返されることはない。

■遅延信管型手榴弾の登場

しかし、次に問題になったのが着発信管を採用したことによる事故の多発である。狭い塹壕内で動き回る兵士にとって、「どこかにぶつかると起爆する」という手榴弾は扱いづらいものだった。投擲しようとして振りかぶったところで塹壕の壁などに当たろうものなら、即座に手榴弾が爆発してしまうのである。これを防ぐために登場したのが、遅延信管を使用した手榴弾だった。

さまざまな方式がある遅延信管型手榴弾だが、基本的には「安全装置であるピンやワイヤーを引き抜くと、4~5秒後に爆発する」という点は共通している。映画やゲームなどでよく見る、リングがついたピンとレバーを組み合わせた手榴弾の仕組みが、この時期に完成した。以降、外殻の構造などのマイナーチェンジはされているものの、基本的に対人用手榴弾の仕組みは変化していない。現在の戦場で使われているものも、基本的な構造はこの時期の手榴弾とほぼ同じである。

このように、手榴弾という兵器は誕生した時点でほぼ完成しており、起爆の仕組み以外は大きく変化することがなかった。現在でも小銃と並んで歩兵にとって不可欠な武器であり続けている。そんな基礎的な武器を扱う訓練で隊員が死亡したのは、まさに異例の事態と言っていい。すでになんらかの故意があったという点は否定されているようだが、自衛隊の事故原因調査の結果を待ちたいところである。

(文=秋山益次郎)

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