元プロ野球選手、元磐城高野球部監督の出沢政雄さん死去 97歳

「オール常磐」のアルバムを手に野球への思いを語る出沢さん=2010年

 出沢 政雄さん(いでさわ・まさお=元プロ野球選手、元磐城高野球部監督)5月24日午前9時、心不全のため福島県いわき市の病院で死去、97歳。自宅はいわき市桜ケ丘。告別式は2日午前11時からいわき市常磐湯本町の湯本会堂で。喪主は長男政隆(まさたか)さん。

 長野県出身。プロ野球の東急フライヤーズ、社会人野球の常磐炭礦(たんこう)、オール常磐で選手、監督として活躍。磐城高野球部監督を務めた1963年夏、初の甲子園出場に導いた。いわき市議を3期務めた。高齢者叙勲で旭日単光章を受章。本紙連載「私の半生」を執筆した。

 【悼む】「生きがい」野球と共に

 常に野球と共に歩んだ人生だった。残した言葉は「野球は私の生きがい」。選手、監督、団体の代表として野球の振興に心血を注ぎ、いわき市の球史に名を刻んだ。

 終戦後、仲間とチームをつくり、大会に出場したのが始まりだった。プロ野球日ハムの前身「東急フライヤーズ」、社会人野球の常磐炭砿などを経て1960年に引退。翌秋に磐城高野球部監督に就くと、63年に初の甲子園出場を成し遂げた。64年には常磐炭砿野球部を新生したオール常磐の結成を主導、炭鉱閉山に伴う解散まで指揮を執った。

 「単なる監督ではなく、出沢先生は教育者」とその人柄を仰ぐまな弟子も少なくない。親交が厚かった磐城高野球部後援会長の鈴木幹久さん(86)は「平静で温厚、それでいて芯が強かった。人間性が素晴らしい人だった」と別れを惜しんだ。

 いわきベースボールコミュニケーション(IBC)代表も務め、晩年まで野球の普及発展へ奔走した。原動力となったのは、敗戦の喪失感で消えかけた情熱を取り戻してくれた野球への感謝だった。(小磯佑輔)

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