個性あふれるザンビア音楽 その衰退と新たな興隆

有名なザンビアのロックバンド、ウィッチ(WITCH)の2021年のステージ。写真.jpg)提供はエスナラ・バンダ ウィキメディア・コモンズ (CC BY-SA 4.0 DEED)より

ライターのリサ・インサンサの主張は言い得て妙である。つまり、ザンビアの音楽シーンは死と再生を何度も繰り返してきたが、それは社会や経済や政治の荒れ狂う現実の反映だというのだ。ともあれ、ザンビアの文化や存在感は再び活気づいている。ザンビアの音楽家たちが再び姿を見せ始め、盛んに演奏し出したのだ。

独立前のザンビアでは、白人植民地統治者たちの文化的影響が強かった。例えばザンビアに住む上流階級の英国人たちは、当時の人気アーティストたちのロックレコードを国外から取り寄せていた。ジミ・ヘンドリックスザ・ビートルズ、そしてディープ・パープルザ・ローリング・ストーンズらのレコードだ。ある世代の人たちは皆、このようなバンドの音楽を聞いて大きくなった。ザンビア人の音楽ファンの中には、楽器を手に取ってロック・ヒーローたちを熱心にまねるものさえ現れた。

伝統的にザンビア音楽は明らかな宗教的役割を担っていて、ザンビア文化における社会の様相を表していた。歌は教義や癒しや精霊への願掛けのためのものだったが、時にはただ歌って楽しむだけのこともあった。伝統的な音楽はあまり聞かれなくなったが、その影響は現代のザンビア音楽の形式のなかに生き続けている。どんなスタイルの音楽でも、アフリカ的な「コール・アンド・レスポンス」の形式はこの国のほとんどの歌で聞くことができる。様々なザンビア音楽で伝統的なドラムのリズムやポリメータ#Polymetre)が聴ける。

1964年にザンビアは英国から独立した。当時は北ローデシアと呼ばれていた。その後ケネス・カウンダ大統領の新政府が、ラジオで放送される音楽の95パーセントをザンビア由来のものとする法律を施行した。カウンダは大の音楽好きで、選挙運動の際には演説の中によく歌を織り込んだものだ。この法施行によってまず国内のラジオ放送の内容が規定された。それに加え、銅産業によって産業化と都市化が進んだ結果、経済が成長した。このふたつが追い風となって、ザンビアの音楽家とその個性的な音楽が盛んとなる土壌が作られたのだ。ライブ演奏が盛んに行われた。鉱山労働者たちは地元のバンド演奏を十分に楽しめるだけの収入があった。鉱業はザンビア音楽の発展に重要な役割を果たしたのだ。採鉱業部門の景気が良い間は、ザンビアの音楽家たちとその個性的な音楽は大いに隆盛を極めた。鉱業が引き金となったこの経済的繁栄は地域社会に直接的な影響を与えたが、さらにライブ音楽の世界もその恩恵にあずかることとなった。

個性的なザンビア音楽 その盛衰の歴史

この70年代に現れ人気を博した個性的な音楽のひとつが『ザムロック』だ。これはサイケデリック・ロックとファンクと伝統的なザンビア音楽を融合させたものだ。依然として欧米の様々な音楽スタイルのミックスだが、植民地時代の影響から離脱したいという願いは強く表れている。WITCH)(”We Intend To Cause Havoc”の言葉遊び)のようなバンドは、欧米音楽のスタイルで演奏しつつも、独自の伝統音楽的な味付けを加えて、その音楽に流れるアフリカの血を忌憚なく表現している。

このジャンルの注目すべき音楽家たちを紹介しよう。ザ・ピース)、アマナズ、クリッシー・ゼビー・テンボ、ポール・ンゴジとンゴジ・ファミリーたちだ。ンゴジは70年代と80年代に活躍した伝説的な音楽家だ。彼はザムロック音楽で有名な地元ロック・グループ、ンゴジ・ファミリーのリーダーとして人気を博した。彼の歌が人々の共感を得た理由は、社会に関連した歌のテーマにある。

2017年にロンドンで聴衆を前に演奏したWITCHのYouTubeビデオをご覧ください。

ザムロックの他にザンビアで人気を博したのがカリンデュラだ。特徴的なアップテンポのリズムとベースギター、そして伝統的なドラムサウンドがふんだんに盛り込まれている。この音楽スタイルの起源は中南部アフリカだ。発祥国は明確ではないが、コンゴ民主共和国だとする説が強い。ザンビアで最大の人気をほこり、アマヤンゲエマニュエル・ムレメナ、クリス・チャリ、ポール・ンゴジ、そしてPK・チシャラなどの有名な音楽家たちがいる。しかしマラウィやジンバブエなどの近隣の国々でも聞くことができる。この音楽は主としてバンドで演奏される。例えば、セレンジェ、ムレメナ・ボーイズ、オリヤ、マサス、アマヤンゲ・アソーザ、マションベ・ブルー・ジーンズ、ムテンデ・カルチュラル・アンサンブル、ディストロ・クオンボカ、そしてグリーン・レーベルズ・バンドなどである。これらのバンドはライブパフォーマンスでよく知られ、とりわけザンビア国営放送のテレビ生中継が有名だ。

ザムロックの名曲の多くは、1973年から1974年にかけてのオイルショックによる経済的絶望と社会不安を反映したテーマを開拓した。一方、政治の問題を取り上げたものもあった。例えばリッキー・イリロンガ&ムシ-O-トゥニャの『ワーキング・オン・ザ・ロング・シング』や、クリスティ・ゼビー・テンポ&ンゴジ・ファミリーによる『アイブ・ビーン・ルージング』は出稼ぎ労働者と日常的な不公平というテーマを取り上げた。また、ザ・ピースの『ブラック・パワー』はアフリカや世界中での意識の高まりを表現した。

ミュージック・イン・アフリカ(The Music in Africa)のサイトに詳しいが、カリンデュラの詩的な物語は、伝統的な民話や社会的価値から現代的な問題まで、多様な題材を掘り下げている。この音楽は物語性が強く、婚姻や風習や日常生活や民族社会などをテーマとして、リズミカルなビートと美しいメロディーを生み出し、ザンビアの文化の伝統と個性をうまく表現している。

ザムロックとカリンドュラは70年代に人気を獲得したが、70年代末に近づくとその魅力と勢いを失い始めた。経済的要因政治的不安定が衰退の原因だったが、音楽家たちのAIDS感染流行が破壊的な追い討ちとなった。それは衝撃的だった。アンビシャス・アフリカ(Ambitious Africa)やアマカ(Amaka)などのサイトがこのことを大きく取り上げている。アンビシャス・アフリカやガーディアン(Guardian)の記事によると、ザムロックはその後何十年も経ってから海外の音楽ファンに再発見されリバイバルした。ザムロックに対する関心が再燃し、レコードが再発されたのだ。そしてWITCHのリード・ボーカリスト、エマニュエル・ジャガリ・チャンダといったザムロックの生き残りアーティストたちが、欧米の新しい聴衆のためにツアーや演奏ができるようになったのだ。

今を表現する音楽

このように様々な事件が続き国の安定性が揺らいだ後、ザンビアの音楽界では国外移住者を通じて海外の音楽が再びブームを巻き起こした。それは2000年代初頭のヒップ・ホップやソウルやレゲエやゴスペルなどだ。デジタル化によってますます違法コビーが増え、ザンビアの音楽産業は今までよりはるかに不安定になった。しかしこの国での音楽活動は決して壊滅したわけではない。アーティストたちは経済的な困難の中でも音楽を作り続けたのだ。

現在では、ザンビアの音楽シーンはゼッド・ビーツ(Zed Beats)という現地独特の音楽として興隆を見せている。「ザンビア」は話し言葉では「ゼッド」と発音する。ゼッド・ビーツの特徴は電子楽器や電子ソフトを使っていることだ。アフリカ音楽とR&Bやヒップホップや様々な西欧の音楽スタイルのフュージョンだ。ゼッド・ビーツは様々なサブジャンルに分かれている。例えばゼッド・R&B、ゼッド・ヒップホップ、ゼッド・ルンバ、ゼッド・ダンスホールなどで、つまり何でもありなのだ。ザンビアでは特に若者の間で大人気を博している。中心になっているのは、JK、ダニー・カヤ、ピーターセン・ザガゼマッキー2クミリアンたちだ。その歌詞のテーマは多様で、恋愛関係から社会政治的問題やその他にも及んでいる。例えばJKの『カピリピリ・カンディ』やマッキー2の『ノー・モア・ラブ』は恋愛関係を歌い、クミリアンの『アラバランサ』やペターソン・ザガゼの『ムニャウレ』などは社会政治的な論評を掘り下げている。

ゼッド・ビーツの中で最も有望なのがゼッド・ヒップホップだ。スラップ・ディーシェフ187、マッキー2など人気のラッパーたちがいる。ザンビア文化を認めようという人々の需要に応え、演奏に「カリンデュラ風」を取り入れているアーティストたちもいる。例えば、次のYouTube動画で紹介されているボムヘル・グレネードの『バックショット』がその好例だ。

ザンビアのポピュラー音楽界は伝統的に男性アーテイストが支配的だったが、有能な女性アーティストたちも注目を浴びている。マンピクリオ・アイス・クイーンボムヘル・グレネードカントゥ・シアチンギリ)、ダンビサ)、ケイ・フィーゴ、プリンセス・ナターシャ・チャンサ、サルマ・ドディアといった人たちだ。

この国の現代音楽シーンは、ジャンル面だけでなくジェンダー面でも多様化が進んでいる。これらの女性アーティストたちが歴史的に父権的なこの国の音楽界に立ち向かっているのだ。

ザンビア音楽を特集したプレイリストはここをご覧ください。世界中からセレクトした多様な音楽の演奏をたっぷりと楽しむには、グローバル・ボイスのSpotifyプロファイルへどうぞ。

校正:Minako Enomoto

原文 Zita Zage 翻訳 Yasuhisa Miyata · 原文を見る [en]