『マッドマックス 怒りのデス・ロード』が放つ強い輝き より深まる『フュリオサ』への理解

『マッドマックス』サーガの最新作となる、『マッドマックス:フュリオサ』の劇場公開が始まった。核戦争によって文明が滅び荒廃したウェイストランド(荒野)を舞台に、暴力に支配された集団のなかで、たくましく生き延びながら復讐を誓う一人の女性“フュリオサ”の物語だ。

そんな『マッドマックス:フュリオサ』を最大限に楽しむためには、物語が直接繋がっている前作『マッドマックス 怒りのデス・ロード』(2015年)も、できれば観ておいたほうがいいだろう。ちょうど、最新作公開に合わせ、前作が6月3日13時40分からテレビ東京系『午後のロードショー』で地上波放送されるのである。未見の方も、すでに内容を知っている方も、最新作と併せて、名作として知られる『マッドマックス 怒りのデス・ロード』を、ぜひ観てほしい。

ここでは、そんな本作『マッドマックス 怒りのデス・ロード』の魅力や奥行き、そして成り立ちやテーマなどについて、あらためて考えていくことで、両作への理解をより深めていきたい。

『マッドマックス』のそもそもの第1作は、1979年に公開されている。家族の身を狙われた警官マックスが、復讐の炎を燃やして狂気の暴走族と決死のバトルを展開する。その迫力あるアクションと力強い物語は、オーストラリア発の映画として大きな評価を得て、監督のジョージ・ミラーと主演のメル・ギブソンはともにブレイクを果たすことになる。

続く『マッドマックス2』(1981年)、『マッドマックス/サンダードーム』(1985年)では、予算が大幅に増え、舞台が新たな大戦後の文明が崩壊した「ポストアポカリプス」の世界へと移る。荒くれ者たちとの過激なアクションの数々が描かれるとともに、神話性を帯びた雰囲気をも獲得していったのだ。

ハリウッドで多くの映画を手がけたジョージ・ミラー監督は、日々のなかで彼の原点に立ち返る、新たな『マッドマックス』を創造しようと企画を考案していた。それが結果的に30年ぶりの新作となってしまった理由の一つには、これまで主演を務めてきたメル・ギブソンの事情があった。

メル・ギブソンもまた、ハリウッドにおいて俳優や監督として輝かしいキャリアを積んでいったが、DV疑惑や、差別的だと見られる発言が問題視されることでイメージが低下し、大作の主役を演じるには難しい状況となっていた。これによりミラー監督の当初の構想に狂いが生じ、企画の大幅な変更を余儀なくされたのだ。

最終的に、マックスの役をトム・ハーディ、彼とともに戦うことになるフュリオサをシャーリーズ・セロンが演じ、シリーズは仕切り直されることとなった。そして、ミラー監督らの手による物語は、神がかったアイデアと作家的野心、そして時代を先駆ける内容によって、強い輝きを放つものとなった。

ストーリーは、ウェイストランドを放浪するマックスが「シタデル」と呼ばれる砦を根城とする狂気の暴走集団の襲撃に遭い、シリーズを通してマックスの愛車として登場してきた、シリーズのアイコンでもある「V8インターセプター」が奪われる場面からスタートする。本作では、このシリーズの象徴でもある車が、マックスとともに大活躍するという展開にはならないのが特徴だ。そこには、これまでの観客にとって意外であるとともに、本作では新たなものを描くのだという、ミラー監督の意志が滲ませてあるかのようである。

捕獲されたマックスは、人間ではなく“生きた道具”として利用されることとなる。この放射能に汚染された世界では、定期的に血液を入れ換えなければ身体がもたない者も多く、マックスはそのための「輸血袋」として使い捨てられようとしていたのだ。この、長く生きられない運命を背負う若年男性の兵士たちは「ウォー・ボーイズ」と呼ばれ、命を捨てて主君を助けることが至上の幸せだと教育されている。

そんな狂気の集団を作り上げたのは、軍人あがりのイモータン・ジョー(ヒュー・キース・バーン)という、シタデルから汲み上げられる水源を独占し、権力を欲しいままにする、冷酷で利益に抜け目のない人物だ。彼は恐ろしく見えるマスクや甲冑を身につけて民衆に畏怖を与えながら、自らを“不死”であるとシタデルの人々に信じさせている。

ジョーの配下の一人である、大隊長フュリオサは、そんなジョーの支配と教育に、密かな怒りを燃やす女性だ。彼女はある日、戦闘力を持つ石油タンク車「ウォー・タンク」に乗って「ガスタウン」へ取引に向かう任務の途中で個人的な計画を実行に移し、ジョーのハーレムとなっていた「子産み女」たちを彼の支配から解き放ち、自分の生まれた故郷である「緑の地」へと逃亡を始めるのだ。実は、そんなフュリオサもまた、ジョーの「花嫁」としてシタデルに捕らえられた過去を持っていた。

大勢の命知らずのウォー・ボーイズを擁し、ウェイストランドの実力者である「武器将軍」、「人食い男爵」らの協力を得たイモータン・ジョーは、大軍勢を率いてウォー・タンクを追走する。その騒動のなかでマックスは捕縛された状態を抜け出し、フュリオサらとともに逃亡する展開となるのである。

本作で目を見張るのは、この物語を表現する映像の力強さだ。巨大な武装タンクローリーが荒野を走り抜けていく姿を捉えた豪快な絵が持続する内容は、トニー・スコット監督の『アンストッパブル』(2010年)や、ヤン・デ・ボン監督の『スピード』(1994年)同様に、止まらずに走り続ける被写体の運動を捉えた映画として、根源的な映像の魅力を放っている。

それは、映画の歴史のなかでも最初期に製作、公開され、その迫力ある映像が観客に驚きを与えた『ラ・シオタ駅への列車の到着』(1896年)の内容を彷彿とさせるものだ。まさに、映画の“始原”といえるような魅力が、本作の大きな部分を占めているのである。(※)

そして本作が同時に描いているのは、フェミニズム的な要素である。イモータン・ジョーの支配のもと、自由な意志を剥奪された女性たちの苦境と逃走、そして闘争の物語は、「有害な男性性」と呼ばれる家父長的な価値観を基にした暴力性への反発を表現しているものと考えられる。ジョーが率いる軍勢が女性たちを執念深く追走する構図は、女性の意志が不当なかたちで尊重されてこなかった歴史を、具体的に表現するばかりでなく抽象的なかたちでも象徴しているように感じられるのである。

ジョーの「子産み女」として選ばれた者は、自分の意志にかかわらず性的な行為を強制され、子どもを産んだ後は、乳牛のように母乳を搾り取られ資源として扱われることになる。そんな境遇への反発や怒りが累積した女性たちは、「私たちは“モノ”じゃない」というメッセージを残して決死の逃亡をするのだ。

この脚本を執筆するにあたって、ミラー監督は劇作家イヴ・エンスラーに助言を求めたという。エンスラーは子ども時代に父親から度々性的な虐待を受けていたと語っていて、虐待を受ける女性や児童をさまざまな方法で助ける社会活動を先導している人物でもある。まさに現実に存在する“フュリオサ”のような過去を辿った女性の視点が、本作に反映されているのである。

ジョーの身勝手な支配によって搾取されるのは、女性だけではない。若い男性たちもまた「ウォー・ボーイズ」として、戦いや略奪のなかで命を投げ出すことが奨励される。ボーイズらによる「カミカゼ」と「クレイジー」を合わせた掛け声「kamakrazee!」は、「神風特攻隊」における日本軍兵士の犠牲の過去に重ねられている。

そのウォー・ボーイズのなかで、フュリオサたちと同行することになるニュークス(ニコラス・ホルト)は、ジョーに見放されたことで失意に陥るが、逃亡した女性のひとりケイパブル(ライリー・キーオ)の優しさに触れることで、洗脳が解かれていき、最終的に自由意志を持った人間として、彼女を守る姿が描かれるのである。

さて、子産み女たちが献身し、ウォー・ボーイズが命をかけるほどの価値が、果たしてイモータン・ジョーにはあるのだろうか。『マッドマックス』第1作でも悪役を演じていたヒュー・キース・バーンが演じるイモータン・ジョーは、メイクや衣装によって恐ろしさや強さを強調し、自身が「不死身」だと主張してはいるが、虚飾を剥いでしまえば、その実体は生身の老人でしかない。ウォー・ボーイズたちは、遠目からその威容に心酔しているが、より近くでマッチョな鎧を脱いだジョーの姿を目の当たりにしているはずなのである。

そんなジョーと対照的に描かれているのは、フュリオサたちの戦いに協力することになるマックスである。彼はフュリオサらとともに生存をかけて勇敢な行動を見せるが、それは英雄的な存在になろうとするジョーのように周囲の者たちの中心として活躍するのではなく、あくまで一員としての尽力にとどまっている。その姿勢は、フュリオサが銃で狙撃する際に肩を貸す構図にも象徴されている。そしてマックスは、女性たちが戦いの末にリフトで上昇していくなか、無言で姿を消すのである。

このような男性像は、時代のなかで理想とされる資質が変わってきたことを意味している。リーダーシップを発揮して英雄の座や成功の果実を手にするのでなく、下心や見返りなく他者に思いやりをかけられる者こそ、真のヒーローであり、理想の男性なのではないかという考え方だ。その意味でマックスは、時代に対応した新ヒーローだといえるのである。だからこそ『マッドマックス 怒りのデス・ロード』は、女性と男性の戦いを描いた現代の「神話」として、多くの観客の心に残る名作となったのである。

公開中の『マッドマックス:フュリオサ』では、本作でイモータン・ジョーに反旗を翻すことになったフュリオサの前日譚が描かれる。より若い時代の彼女を演じるのは、アニャ・テイラー=ジョイだ。そこでは、「緑の地」を探し求める彼女があれほど慟哭した理由や、「鉄馬の女たち」であった母親との関係、そしてマックスに対する信頼の裏にあったものなどが明かされてゆく。本作と合わせて観ることで、両作への理解はより深まることになるだろう。

そしてさらに、ジョージ・ミラー監督は、マックスを主人公とした他の脚本を書き上げていることも明らかにしている。名作となった『マッドマックス 怒りのデス・ロード』を中心に、マックスやフュリオサたちの戦場である「ウェイストランド」は、その規模を拡大し続けているのである。

参考
※ https://youtu.be/MT-70ni4Ddo?si=5kebWjLfK19lpmfR
(文=小野寺系(k.onodera))

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