武田鉄矢流、幸運のつかみ方 人生最大の失敗は36歳の時に作った映画『坂本龍馬』

インタビューに応じた武田鉄矢【写真:ENCOUNT編集部】

莫大な製作費をかけるもうまくいかず

『プロゴルファー織部金次郎』シリーズ全5作(6月4日~)と『海援隊50周年コンサート ~故郷 離れて50年~』が6月9日午後7時にBS松竹東急で全国無料放送される武田鉄矢(75)。歌手・俳優だけではなく、幅広く活躍しているが、成功のウラには失敗もあったと語る。武田が運のつかみ方の極意を語る。(取材・文=平辻哲也)

デビュー当時の海援隊は、群雄割拠のフォーク界にあって、鳴かず飛ばず。それが『母に捧げるバラード』(1973年)のヒットで翌年にはNHK紅白歌合戦にも出場。しかし、次のヒットが生まれず、数年間の不遇時代もあった。

「東京に出てきても、さっぱり人気上がらず、一発当たっただけでした。僕が運をつかんだのは、忘れもしない山田洋次さんという監督との出会いです。『幸福の黄色いハンカチ』(1977年)に出ることになって、日本映画のNO.1男優の高倉健さんと仕事ができた。そこから、俳優という人生の道が開けてきた」

その後はドラマ『3年B組金八先生』(1979~2011年)の金八先生という当たり役、『贈る言葉』(1979年)の大ヒットを経て、18歳の時から尊敬している坂本龍馬を作品化するなど、好きなことをライフワークにすることもできた。だが、自身が一番悔やむ人生最大の失敗も、同じく坂本龍馬だったという。

「33歳の時に自分で本を書いて『幕末青春グラフィティ 坂本龍馬』(日本テレビ、1982年)という2時間ドラマを作ったんですよ。私が号泣しながら演じる龍馬ですから、どこかコミカルでもありました。あまりにも出来が良かったんで、周りたちから映画にしようという話があって、3年後の36歳の時に『幕末青春グラフィティ Ronin 坂本龍馬』(1986年)という映画を撮ったんです。でも、これがうまくいきませんでした」

映画はドラマ版の続編で巨大な船を建造するなど製作費も莫大だったが、興行的にも作品的にも満足はできなかった。

「監督さんはテレビと同じでしたが、すっかり彼の考え方が変わってしまったみたいで、ギクシャクしてしまった。映画の怖いところは、打ちどころが悪いとマジで落ち込むんです。自分で台本を書く時は、ここは泣けるというところを作って、俺はこういう演技をするだろうと予想して、未来完了形に向かっていくのですが、それをやらせてもらえなかった。ベストコンディションでありながら監督には使ってもらえなかった。それが無念で、結構な心の傷になるんですよ」

その無念を晴らすために、1986年からは漫画『お~い!竜馬』(作画・小山ゆう)の原作を手掛けたが、それでも傷は言えなかったという。

「怨念のこもったつまずきでした。それが34年間、続きましたね」

それが癒えたと思った瞬間は、大林宣彦監督の遺作『海辺の映画館―キネマの玉手箱』(2020年公開)で龍馬役を演じたことだった。

「監督の遺作になることは予感をしていましたので、お引き受けしたんです。ロケ地は監督の故郷である広島・尾道でした。行ってみて、びっくりしたのは36歳の時の映画のロケ地と同じだったんです。ちょっと寒気しました。あの映画は僕にとっては不運だったんですけど、時間が経つと意味合いが変わるんです。不運だったことが、運の良さになったんじゃないか、と。そんなことを考えた出来事でした」

武田は、運をつかむコツを知っているのではないか。そんなことを聞くと、64歳から始めた合気道を話題にする。

「その道場の館長が突然、『皆さんがなぜ合気道の練習をしているか、分かりますか』と聞いたことがあるんです。静まり返る中、館長は『運を磨くためです』とサラリと言うんですね。『運は修行でしか磨けませんよ』と。つまり、運を磨くという術があるとすれば、毎日同じことやれ、ということみたいです。『神に祈るんだったら毎日祈れ』『強くなりたいなら、毎日それを念じて動け』と。館長はそのことが言いたかったみたいです」

この館長の言葉に、前述の坂本龍馬の話が重なった。

「私の龍馬好きは18歳から始まりました。今、75歳になりましたけど、まだ好きで、坂本龍馬のことを考えると、自分のメンタルが18歳の時に戻るのを感じるんです。高知・桂浜の龍馬の銅像の前で正座して泣いたこともあります。きっと、その時、龍馬は『お前、俺を使って一発当てようとしただろう。それが運をなくすんだ。一発当てようとせず、オレのことが好きなら、そう言い続けろ』と言っていたんじゃないかな。運をつかむのに近道はないんですよ」。武田は大きな志を持って、続ける大切さを説いた。

□武田鉄矢(たけだ・てつや)1949年4月11日、福岡県福岡市生まれ。72年「海援隊」としてデビュー。73年に『母に捧げるバラード』が大ヒットし、翌年にはNHK紅白歌合戦に初出場。77年に高倉健主演の映画『幸福の黄色いハンカチ』に出演し、俳優としても注目。『3年B組金八先生』(1979年)が当たり役になった。脚本家、作家、映画監督としても活躍。代表曲に『あんたが大将』、『人として』、『贈る言葉』、『思えば遠くへ来たもんだ』。主な出演作に『101回目のプロポーズ』、映画『幕末青春グラフィティ Ronin 坂本竜馬』、『刑事物語』シリーズ、『プロゴルファー織部金次郎』シリーズ。血液型O型。身長165センチ、体重69キロ。趣味:読書・柔道・ゴルフ。

ヘアメイク&スタイリスト 川岸みさこ平辻哲也

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