漫画『ひゃくえむ。』が活写したスポーツの本質 相対するアマチュアリズム/プロフェッショナリズム

単行本の刊行も危うかった作品が、ついに劇場アニメ化まで上り詰めました。

年間数百タイトルの漫画を読む筆者が、時事に沿った漫画を新作・旧作問わず取り上げる本連載「漫画百景」。第三十九景目は『ひゃくえむ。』です。

劇場長編アニメーション化が決まり、2025年に公開されることが5月に発表された本作は、漫画家・魚豊さんの連載デビュー作。後に『チ。-地球の運動について-』で大反響を集める作家の一作目となった漫画です。

しかし連載時の反応は薄く、単行本の刊行も危うかったという過去があります。

そんな作品が読者からの支持も追い風にして逆転で単行本化を勝ち取り、ついには劇場アニメ化……サクセスストーリーとは、まさにこのこと。今回はその経緯を含めて、本作の魅力を紹介します。

連載前も連載中も苦労した魚豊の出世作『ひゃくえむ。』

『ひゃくえむ。』は、2018年11月から2019年8月まで、講談社の漫画アプリ・マガジンポケットで連載された作品です。

陸上競技の100m走を題材に、走ることに懸けた主人公の人生を描いています。

恋と陰謀をテーマにした最新作『ようこそ!FACT(東京S区第二支部)へ』でも異彩を放った魚豊さんの出世作として、今でこそ知られていますが、連載時は閲覧数などの反応が芳しくなかったそう。

結果、単行本は刊行されない決定が下されました。これを魚豊さんがSNSで明かし、自費出版を目指しますと投稿したところ反響が集まり、一転、単行本の刊行が決定。

2019年に全5巻、2022年にはほぼ全編に渡る加筆修正が入った新装版上下巻が発売されています。

新装版の下巻に収録された作者インタビューによると、もともと『週刊少年マガジン』での連載コンペに原型となる作品で参加するなど、連載が決まるまでにも紆余曲折あったことが赤裸々に語られています。

相当な産みの苦しみがあった作品なのです。

たった100m、数十秒が人生を変える

『ひゃくえむ。』の主人公は、天性のスプリンターで、100m走では全国1位の小学生・トガシ

同年代には敵はおらず、将来を嘱望される破格の才能を持っています。その速さで友人と居場所を得ており、人生を上手いこと乗りこなしている。

トガシとは対極にあるのが、後に彼のライバルとなる小宮です。

陰気な性格の小宮は周囲から除け者にされており、その現実を考えないようにするため、酸欠になるまで走るという不器用すぎる人間です。トガシのように目に見える才能もありません。

そんな小宮を見かねて、トガシは走るトレーニングに付き合うことに。やがて訪れた運動会で、周囲をあっと驚かせる快走を見せた小宮は、後日、トガシとの真剣勝負を申し出ます。

この時の100m、たった十数秒が、2人の人生を大きく変えることになるのでした。

※以降ネタバレありです。未読の方はご留意ください。

仲間がいるトガシと、独りで生きる小宮

小宮との真剣勝負で初めて全力疾走し、勝利を収めたトガシは、本気の高揚と競争の興奮を体感します。一方、敗北の恐怖も知ってしまう。

これまで才能に頼り生きてきた彼は、陸上以外で人と関わる術を学んでおらず、勝たなければ自分に価値はないと信じ込み、勝利への強迫観念に駆られるようになります。

中学時代は全国大会3連覇の偉業を成し遂げたものの、喝采を浴びても心は休まらない。自分の才能は枯れはじめていると考えたトガシが、強豪校の重圧を嫌い、地元の高校へ進学したところから新エピソードがはじまります。

この高校生編は、伸び悩みを感じるトガシが、暴力事件をきっかけに廃部危機に陥る陸上部の再興のため奔走するエピソードです。暴力事件と廃部騒動は、学生スポーツ漫画の定番中の定番ですね。

無敗記録の継続を期待する周囲の目から逃れるため、陸上から離れようとするトガシが、周囲からバカにされても陸上が好きで続けている、正反対な生き方をする先輩・浅草葵と出会い変わっていきます。

陰湿な敵役(アメフト部)や落ちぶれた陸上部の部長も登場し、まさに“友情、努力、勝利”な展開。走る理由を失いかけていたトガシが、仲間と走ることで陸上の楽しさを再認識する青春群像劇です。

最後には、高校陸上界に彗星のごとく現れた小宮が再登場。全国大会決勝の舞台で小学生以来の対決に挑むトガシと小宮。

勝負は仲間の声援を受けるトガシを、孤高に生きてきた小宮が突き放す結果に終わります。トガシの無敗記録はここで途絶え、物語は一気に10年後へ飛ぶのです。

ギリギリプロのトガシと、日本有数の選手になった小宮

10年後──25歳になったトガシは、とある企業と契約する陸上選手になっています。しかし実情は契約更新も危うい、ギリギリのプロです。

対する小宮は、世界でも活躍する日本有数の選手に成長。残酷なまでに2人の差は開き、扱いも対照的です。

そんな社会人編で描かれたのは、戦う者の孤独でした。

学生から社会人にステージが変わったことで、勝敗が人生を左右するプロスポーツのシビアな面が強調されています。周りは全員ライバルで、最終的に頼れるのは己だけ。

この厳しい世界でトガシは、小宮に負けて以降、緩やかな右肩下がりの現状をなんとか維持しようと、いつしか挑戦を止めてしまっています。

過去の人の烙印を押され、若手には軽視されている。高校時代のように、苦楽を共にできる仲間もいない。楽しいことなんて一つもない。

それでも、“なぜ走るのか”?

はたと湧いた疑問の答えを求めて、過去を反芻し、自問自答を繰り返す。突然の怪我に泣き、所属企業との契約も打ち切られる。いよいよ走れなくなるかもしれない瀬戸際で、もがき抜いて一つの結論を導き出し、25歳にして初めて迷いなく走ることができるようになります。

最終話ではトガシと小宮の三度の勝負が実現。白熱する2人の勝負は極上の10秒。全読者を震わせる、秀逸なラストになっています。

相対するアマチュアリズム/プロフェッショナリズム

『ひゃくえむ。』では、アマチュアリズムとプロフェッショナリズム、スポーツの2つの本質が描かれました。

目に見えない結束や達成感を肯定するアマチュアリズムがテーマの高校生編と、勝つことが第一のプロフェッショナリズムがテーマの社会人編を大胆に切り替えることで、相反するスポーツの本質を活写しています。

同時に、走ることを楽しむ感情勝つためにこそ走るという動機、どちらか一方に偏ることを是とせず、両者が不可分であることも様々な登場人物たちの言動で表現しています。

常に周りを気にしてきたトガシと、自分の世界に生きてきた小宮のキャラクターも真逆です。すべての描写に絶対がなく、読者次第でいかようにも受け止められます。

余剰を廃し、徹底して1コマ1コマに意味を込め続けるストイックな魚豊さんの作風も相まって、全編に強いメッセージ性が凝縮されていました。

そのため一気読みがオススメ! 未読の方は、まさに100m走の如く駆け抜けるように読んでみてください。ガチに生きるトガシたちの人生に、ガツンと食らうはずです。

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