大谷翔平の1015億円契約、12年前なら602億円…史上初の「1000億円プレイヤー」が誕生した瞬間と日本経済の〈失われた30年〉

(※写真はイメージです/PIXTA)

今やその名前を知らない人はほとんどいない、日本中…いや全米も熱中するアスリート・大谷翔平。本記事では内野氏による新刊『大谷翔平の社会学』(扶桑社)から一部抜粋し、MLBとNPBの変化ついて論じます。

大谷の1015億円契約、12年前なら「602億円」

2023年12月9日、大谷翔平がロサンゼルス・ドジャースと結んだ契約額は、まさに天文学的な数字だった。総額7億ドルはメジャーリーグ(MLB)史上断トツの最高額であるだけでなく、スポーツ史上における最高額である。野球よりはるかにグローバルなスポーツであるサッカー界の最高選手、リオネル・メッシが2017年にFCバルセロナと結んだ4年約5億5500万ユーロ(約860億円)という契約を総額で上回った。MLBでは、大谷の「元チームメイト」であるマイク・トラウトが2019年にロサンゼルス・エンゼルスと結んだ12年4億2650万ドル(約618億円)という契約が過去最高額だったが、大谷の契約はそれを約3億ドルも上回る。MLBを含むプロスポーツ選手の年俸が年々上がっていることを踏まえても破格の契約だ。

アメリカではESPNなどのスポーツ専門チャンネルはもちろん、『ウォール・ストリート・ジャーナル』や『フォーブス』といったビジネスマン向けの経済紙も、大谷の超巨額契約を大々的に報じた。イギリスを代表するメディア、BBCのスポーツ報道はサッカーが中心だが、そのBBCすら大谷が生み出す経済効果や日本人メジャーリーガーの歴史などを紹介した。もちろん日本のテレビのワイドショーは、大谷の契約発表後はしばらく大谷の話題で持ち切りだった。ある番組は大谷の「年収」「月収」「日給」「時給」「分給」「秒給」を全て算出し、大谷がどれほど大金を稼ぐことになるかを伝えた(たとえば大谷の「時給」は約115万円)。もし契約総額分の一万円札を積み重ねたら、その重量は「10トン」になり、それはアフリカゾウ2頭の体重に相当する、とも。

食料品などの物価が日々上昇する一方で数パーセントの賃上げもままならず、将来に不安を覚えながら生活費を切り詰めている僕ら大多数の日本人にとって、大谷の契約はもはや別世界の出来事であるかのように思える。

そもそも「1015億円」という日本円に換算した場合の金額は、契約が報じられた当日の「1ドル=145円」という為替レートに基づいて算出されたものだ。たとえば約12年前、2012年1月にダルビッシュ有がテキサス・レンジャーズと契約したときのレートは「1ドル=86円」だったが、もし大谷の契約をこのレートで換算し直すと「602億円」になる。それでもなお超高額であることに変わりはないが、実に400億円も目減りする。「1015億円」という文字通り桁違いの数字は、2023年に発生した歴史的な円安、つまり「(ドルに対して)円の価値が低い」ことによって生まれたものだ。大谷が史上初の「1000億円プレイヤー」になったことは日本人として誇らしいが、その数字は「自国の通貨の弱さ」がゆえに生まれたものであることを考えると少し複雑な気持ちになる。円安は必ずしも悪ではないが、僕ら日本人の多くは資産の大半を日本円で持ち、賃金も日本円で受け取っている。

大谷の超大型契約はもちろん、大谷という稀代のスーパースターに付随する途方もない経済的価値を示しているが、同時にMLBが有する圧倒的な資金力、そして日本とアメリカの経済力格差をも示している。1990年代前半のバブル崩壊から今日に至る「失われた30年」で日本経済が停滞している間に、アメリカではプロ野球チームが一人の選手に1000億円を投資できるほど経済が成長したということだ。

MLBの選手年俸はNPBの13倍

大谷のドジャース入りが発表された2日後、2023年12月11日付の日本経済新聞は、MLBの経営状況について以下のように伝えている。

「破格といえる年俸の高騰はリーグの成長に起因している。MLBの総収益は17年に初めて100億ドル(約1兆4480億円)を突破。新型コロナウイルス禍の苦境から反転して22年は108億ドル(約1兆5638億円)に達した。全国放送の放映権など権利を一括管理する機構が30球団に均等に利益を配分。全体の収入が増えれば、それだけ分配の額も大きくなる」

日本円にして1兆5000億円を超える売り上げを誇るMLBに対して、日本プロ野球機構(NPB)の現在の売り上げは1800億円程度と見られている。その差は8倍以上だ。

選手の年俸水準になると、さらに差が開く。2023年2月にMLB選手会が発表したところによると、2022年シーズンにおけるMLB選手の平均年俸は422万ドルで、発表当時のレートで日本円に換算すると約5億7500万円。一方、日本プロ野球選手会が発表した平均年俸は、2023年シーズン開幕時点で4468万円だった。これは1980年の調査開始以降で最高額だったが、それでもMLBの約13分の1にすぎない。日本球界のスター選手たちが次々と渡米するのも当然だ。

今やNPBの経済力はMLBの足元にも及ばないが、昔からそうだったわけではない。日本でまだバブル景気の余韻が残っていた1995年、NPBとMLBの推定収入はそれぞれ900億円と1500億円だった。MLBの球団数はNPBの倍以上あるので、一球団あたりの収入はNPBのほうが高かった。しかしその後の約30年で、NPBの収入が約2倍となったのに対し、MLBの収入は約10倍に達している。MLBはNPBのほぼ5倍のペースで、収入を伸ばしてきたのだ。

この数字は、アメリカ経済と日本経済の成長ペースにほぼ比例する。過去30年間で日本のGDP(国民総生産)は1.4倍だが、アメリカのGDPは4.5倍になっている。日本のGDPは長年、アメリカと中国に次ぐ世界3位だったが、2023年にドイツに抜かれ、2026年にはインドにも抜かれる見通しだ。

MLBとNPBの経済格差について、スポーツビジネスの専門家やジャーナリストは、それぞれの「経営努力」や「ビジネスモデル」の差によるものと説明することが多い。NPBが親会社ありきの、旧態依然とした昭和な球団経営を引きずっているのに対し、MLBはリーグ一体となって事業のデジタル化やグローバル展開などを推進してきたのだ、と。

確かにそうなのだが、それ以前に日本とアメリカの経済格差拡大が決定的に大きい。MLBの先進的な取り組みうんぬんといったレベルの話の前に、そもそものアメリカ経済が日本の4倍も成長したのだ。ベースとなる国家経済にこうも差がついてしまっては、NPBが多少の経営改革をしたところで太刀打ちできない。

国家経済が成長すれば当然、人々の購買力と企業の投資意欲は高まる。所得の増えたアメリカの野球ファンは、たとえ高額でも試合のチケットや贔屓選手のユニフォームを買い、球場で一杯15ドルもするビールを飲む。キャッシュフローに余裕のある企業は高額なスポンサー料を支払って、MLBなどメジャーなスポーツリーグや地元チームのスポンサーになる。これはリーグや球団の経営努力うんぬんではなく、単純に国家経済が好調だからこそ生まれる現象だ。経済が成長していない日本では、NPBや各球団がどれだけ努力しても限界がある。

スポーツビジネスの収入源は主にチケット収入、グッズ収入、スポンサー収入などがあり、先ほど引用した日経新聞の記事によると、MLBの収益増において「けん引役となっているのが放映権料収入」だ。MLBは2022年からESPNやFOX、ターナースポーツと、それぞれ7年総額30億~50億ドル規模で契約。ニューヨークを拠点にするスポーツマーケティング会社、トランスインサイトの鈴木友也代表は、記事のなかで「ケーブルテレビ局の力が強く、OTT(オーバー・ザ・トップ=インターネット経由のコンテンツ配信サービスの総称)と対抗することで、放映権料が上昇する原動力になっている」と解説している(余談だが僕は大学を卒業する前にトランスインサイトでインターンとして働かせてもらい、短期間ながら本場のスポーツビジネスに触れる機会を得た)。

メディア間における放映権獲得競争の激しさが高騰の原動力、という話は確かにその通りだろうが、そもそもESPNやFOXといったテレビ局が巨額の放映権料を支払えるのは、それだけの投資を行える経済環境があるからだ。好調なアメリカ経済が今後も成長していくと見込めるから、リスクを取って巨額の長期投資を行える。景気が良ければ、ESPNやFOXに多額の広告料を支払ってでもCMを打ちたい企業は増えるだろうし、より多くの人が高い契約料でもお目当てのチャンネルを見たいと思うだろう。収入の多くを広告に依存するメディアビジネスは、景気が悪くなると広告主の獲得に苦労するが、逆もまた然り。放映権高騰の土台にはやはり、そもそものアメリカ経済の成長があるはずだ。

日本がバブル景気に湧いた1980年代後半には、アメリカで日本企業のCMが多く流れていた。それは当時、日本企業に圧倒的なカネがあったからだ。アメリカ最大のスポーツイベント、NFLスーパーボウル中継のCMにも多くの日本企業が登場した。全米の注目を集めるスーパーボウルのCM枠は、30秒あたりの平均価格が今日では700万ドル(約9億2000万円)と言われる。そんな超プレミア価格のCM枠を日本企業が買い漁るほど、当時の日本経済は強かったのだ。

内野 宗治

ライター

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