【特集|単独インタビュー】拉致から46年 曽我ひとみさんが語る未解決の嘆きと横田めぐみさん、母・ミヨシさんへの思い【新潟】

曽我ひとみさん

北朝鮮に拉致され帰国から22年がたった拉致被害者・曽我ひとみさんが、UXの単独インタビューに初めて応じました。拉致被害者の家族の帰国からも今年で20年となりますが、曽我さんの母・ミヨシさんや横田めぐみさんの救出はいまだかなっていません。2人への思いや、北朝鮮でのめぐみさんとの思い出などを語りました。

■曽我ひとみさん
「長い時間が過ぎているのに拉致問題が解決していない、すごく苛立ちを越えてしまったような今、そんな気持ちで毎日過ごしている。」

拉致被害者の曽我ひとみさん(65)。46年前、19歳のときに佐渡市旧真野町で母・ミヨシさんと共に3人の男に拉致されました。

■岡拓哉アナウンサー
「曽我さんは、今から46年前、1978年8月12日、自宅近くのあちら見える商店で買い物をしたあと、母親のミヨシさんと共に自宅に帰る途中、残り数十m、まさにこの道で拉致された。」
■曽我ひとみさん
「ちょっと庭のほうに道のすぐ横に引き込まれて、手足を縛られて口をふさがれて南京袋、大きめの袋被らされてそれから担がれて、川のほうに出て、その後から母の姿を見ていないので本当に心配だったが。」

近くの国府川から小さな船で海に出ると、大きな船に乗せられ、翌日の夕方、北朝鮮に到着しました。
■曽我ひとみさん
「今でいう招待所入ったら肖像画がかけられていて、この人を知っているかと聞かれたので見たことも聞いたこともないのでわかりませんと答えて。おっかなくもあり、びっくりでもあり、気持ちがすごく落ち着かなかったことを今でもはっきり覚えている。」

平壌に移り、数日経ったある日、1人の日本人女性と出会いました。曽我さんの5歳年下、新潟市で拉致された横田めぐみさんです。
■曽我ひとみさん
「私にも妹がいて、ちょうど6歳違いでめぐみさんと同じくらいの年なので、また新しい妹ができたような、でもよく考えたらどうしてこんな小さなかわいい子がこんなところにいるんだろうと少し疑問に思った。」

■岡拓哉アナウンサー
「そのあたりの話、めぐみさんがどうしてここにいるのか?」
■曽我ひとみさん
「1度だけ、どうしたのという話を夜、みんなが寝静まったあとで静かなところで少し話を一度だけした。自分も日本人だし、部活の帰りに連れてこられた、そんな話をしたが、お互い話をすることは胸も痛むし考えたくない、2人とも同じ気持ちだったので、そのとき1回だけ。」

数カ月一緒に暮らして、数カ月別々に暮らす・・そんな生活を繰り返しながら、8カ月ほどめぐみさんと過ごしたと言います。
■曽我ひとみさん
「本当にめぐみさんには色々なことを教えてもらって、勉強もすごく頭が良かったので、私はなかなか覚えるのが苦手だったので、だいぶ先生になって頂いて色々なことを教えてもらった記憶がある。朝鮮語の会話、会話から始まって読み書き、なかなか発音難しいところがあって、何度も何度も聞いてでも何とか日常の会話はできるようになりまして、めぐみさんのおかげだなとつくづく思う。」

曽我さんに結婚の話が出て、めぐみさんとは離れ離れに・・
■曽我ひとみさん
「ちょうど別れという日がきて、めぐみさんが、すごく大切にしていた赤いスポーツバッグがある、部活のときにそれをずっと学校にもっていったと話をしていて、赤いバッグを自分だと思って使って、もっていってと言われ。いつも店に買い物に行くが、もしかしたらめぐみさんもこの店で買い物するかもしれないからと思って毎回、買い物に行くときには赤いバッグを必ずもって買い物に出かけた。」
■岡拓哉アナウンサー
「学校名とか名前が書いてあるもの?」
■曽我ひとみさん
「中には名前が書いてあった。でも指導員はわからないかもしれないが、誰かが急にあけてしまわないと思うが、一応その上に白い紙をはって名前がすぐに見えないようにしていた。」
■岡拓哉アナウンサー
「今そのかばんは?」
■曽我ひとみさん
「向こう(北朝鮮)です。」

その後、曽我さんは長女が1歳か2歳ごろに平壌の外貨ショップで1度、めぐみさんを見かけたと言います。
■曽我ひとみさん
「(めぐみさんは)20歳になってないくらい。お互いのところに指導員がそばでついているので、話しという話はできなかったが、お互い顔を見て元気そうだな、元気でいるんだなとそのことが確認できたので。自分自身もびっくりしていたし、めぐみさんもびっくりしていたと思う。お互いに言葉はなくても。」

北朝鮮で24年間暮らすことになった曽我さん。結婚に出産・・新しい家族もできました。それでも、「日本に帰りたい」という思いは消えることはありませんでした。
■曽我ひとみさん
「色々な上の議員さんが、(北朝鮮に)行った人たちがたくさんいた。今まで全部テレビのニュースで流れる。何で私たちのこと知らないのよ、みたいなそれを言ってもどうしようもないが、その人たちに会えるわけではないがテレビを見るたびにあったし、何でというのずっと思っていたので。諦めてしまったらもう終わりなので、絶対に諦めないでいれば日本に帰ることができると自分自身を信じて24年間過ごしていた。」

事態が動いたのは、2002年9月の日朝首脳会談。北朝鮮が拉致を認め謝罪。この時、初めて、曽我さんの生存が明らかになりました。
■曽我ひとみさん
「小泉さんがいらっしゃって、色々な事柄があったと思うが、帰国の日が決まって、その前に5人で会う時間があって、この5人が今回、日本に一時帰国という形で帰りますよということで、5人一緒に会ったのは初めて。」

その年の10月、日本への帰国の日。北朝鮮の空港には、夫と2人の娘が見送りに来てくれたそうです。そこには、めぐみさんの娘・キム・ウンギョンさんの姿も。
■曽我ひとみさん
「お母さんはと聞いたが、いるよという話をして、お互い、特に私は顔見たら涙がとまらなくて。」

拉致から24年、ようやく帰国できた曽我さん。佐渡市では、家族や同級生など大勢の人が出迎えました。
その2年後、北朝鮮から夫と2人の娘が来日。佐渡での生活を始めました。気がかりは、一緒に拉致された母・ミヨシさんの安否です。

■曽我ひとみさん
「母親も92歳という本当に高齢になってしまって、毎日、自分のことができているのかなという心配と、とにかく元気でいてくれれば絶対に佐渡に帰ってくる日があると思うので、これまでは諦めないでという思う気持ちで今、毎日過ごしている。」

腕には、ミヨシさんからプレゼントされた腕時計。今も時を刻み続けています。
■曽我ひとみさん
「ずっとこの時計と一緒に母親がいて、母の代わりに時計という本当に時計と母は一心同体ではないが、いつも応援してくれているような気持ち。」

進展しない拉致問題。今、政府に求めることは?
■曽我ひとみさん
「どうしたらうまく交渉のテーブルを一日も早くもてるかというところを自分のこととして、これまで以上に考えて頂き、一日も早い拉致問題解決のために全力で交渉頂きたいと心から願う。」

4月からは、佐渡市拉致被害者対策係に勤務しています。家族との再会、そして拉致問題の進展を信じてこれからも活動を続けていきます。

■曽我ひとみさん
「本当に時間がない、ご家族が元気なうちに被害者が帰ってきてくれないのと何の意味もない。家族がいる間にみんなが会えるようにこれからも自分のできることを出来る範囲で一生懸命していきたい。」

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