『あんのこと』入江悠監督 スタッフ皆が河合優実に惚れていた【Director’s Interview Vol.000】

コロナ禍の日本で一人の少女が命を絶った。この実際に起こった事件をモチーフに映画化されたのが、本作『あんのこと』だ。河合優実を主演に迎え、入江悠監督が手掛けたこの作品は、私たちが経験したコロナ禍を淡々と反芻していく。映画を観ていると、自分たちが経験したこと、自分たちの知らなかったこと、それら全てがあっという間に風化しかかっている事実に驚かされる。そして悪気なく無為に過ごしてきた日々を自問することとなる。

映画の主人公・杏としてそこに存在した河合優実を、ドキュメンタリーと見紛う手法で捉えたこの作品、入江監督はいかなる思いで作り上げたのか。話を伺った。

『あんのこと』あらすじ

21歳の主人公・杏(河合優実)は、幼い頃から母親(河井青葉)に暴力を振るわれ、十代半ばから売春を強いられて、過酷な人生を送ってきた。ある日、覚醒剤使用容疑で取り調べを受けた彼女は、多々羅(佐藤二朗)という変わった刑事と出会う。大人を信用したことのない杏だが、なんの見返りも求めず就職を支援し、ありのままを受け入れてくれる多々羅に、次第に心を開いていく。週刊誌記者の桐野(稲垣吾郎)は、「多々羅が薬物更生者の自助グループを私物化し、参加者の女性に関係を強いている」というリークを得て、慎重に取材を進めていた。ちょうどその頃、新型コロナウイルスが出現。杏がやっと手にした居場所や人とのつながりは、あっという間に失われてしまう。行く手を閉ざされ、孤立して苦しむ杏。そんなある朝、身を寄せていたシェルターの隣人から思いがけない頼みごとをされる──。

忘れてはいけないもの


Q:プロデューサーから「映画にしてみませんか」と新聞記事をもらったことがきっかけだそうですが、実際にあったことを映画にする作業はいかがでしたか。

入江:杏の元になった女の子の記事と、多々羅という刑事の元になった記事の二つを読んだのですが、それが繋がっていることに衝撃を受けました。それで脚本を書き始めたのですが、そもそも実話を脚本化する作業をこれまでしてきてなかったことに気づいて…。脚本を書き出す前は全く無自覚だったのですが、途中から「実話の映画化の責任はこれまでと違う」と慄きましたね。

Q:記事を読んだだけで終わってしまう人が多い中、そこから一歩踏み込んでアクションしたのは、何か思いがあったのでしょうか。

入江:自分にとって、コロナの時期が想像以上に苦しかったというのがまずあります。自分はそういうものに対して耐性のある人間だと思い込んでいたのですが、意外とそうでもなかった。当時は何かしなきゃと思って『シュシュシュの娘』の制作につながっていったのですが、コロナ禍のことを忘れてはいけないという気持ちがありました。コロナの時期を映画としてちゃんと描いておきたいなと。

『あんのこと』©2023「あんのこと」製作委員会

Q:この映画を観ると、コロナのことをほとんど忘れてしまっていることに驚きます。

入江:そうなんです。撮影の際も、エキストラさんにマスクをしてもらうかどうかを助監督と話していたのですが、「あれ? この時期はマスクしてたっけ?」と、自分たちがいつマスクをし始めたのか、意外と忘れてしまっていることに気づきました。撮影時からするとたった2年半前くらいのことなのですが、「こんなにも忘れてしまうものなのか」と。それだけ日々いろんなことが起きていたからだとは思いますが、忘れてしまっていること自体にかなりショックを受けました。学校が一斉休校になったタイミングなども「あれは何月のことだっけ?」と意外と忘れていますが、でも一方で、自分たちが追い込まれていった記憶は残っている。そういうものをちゃんと繋げておきたかったんです。

Q:コロナ禍でのブルーインパルスの飛行シーンには胸を衝かれました。

入江:自分たちがブルーインパルスを見ていた一方で、こういう事件が起こって、こんな女の子がいた。地続きのところにいたにも関わらず、そういった事件に対して全く想像力を働かせてなかった自分に「一体何をやっていたんだ」とショックを受けましたね。

Q:あのシーンを見て、まさに私も「自分は一体何をやっていたんだ?」と思いました。

入江:そう感じていただけたことは、とても嬉しいです。ブルーインパルスが飛んだあの日は晴天で清々しくて、それが余計に複雑な気持ちになるんですね…。

今まで培ったものを全部捨てる


Q:映画化を決めたあと、プロット・脚本はどのように作り始めたのでしょうか。普段の脚本作りとの違いなどはありましたか。

入江:脚本を書き始めるまでに一番時間がかかりました。稲垣吾郎さん演じる記者のモデルになった方に取材をさせてもらい、どういう時系列で何が起きたのか、杏のモデルとなった女の子は、どういう人だったのかなど、いろんなことを伺いました。また、薬物依存や家庭内暴力に関しては僕自身の知識が足りなかったので、そこを調べるのにも時間がかかりました。そういったリサーチを終えてから脚本を書き始めたのですが、そこからは一気呵成に仕上げた感じでした。

Q:取材をして積み上がってくる事実を、物語として落とし込む作業はいかがでしたか。

入江:難しかったです。杏を取り巻く家庭や薬物の問題と、多々羅が関与していた問題、この二つを映画としてどう接続させるかに悩みました。撮影中まで悩んでいたのですが、これは杏の物語だから、杏という女の子の人生を見つめようと、撮影途中くらいでやっと見えてきた。杏と多々羅のどちらも平等に撮影していたので、編集で多々羅の方をかなり落として、杏の方にフォーカスしていった感じです。

『あんのこと』©2023「あんのこと」製作委員会

Q:監督が河合さんに伝えられた「これまで培ってきた方法論や経験は、ぜんぶ捨てようと思っています」 というコメントが印象的でした。そこにはどういった意味があったのでしょうか。

入江: “映画としての終わり方”ということに繋がるのですが、娯楽性が高いものにしても、リアル寄りなものにしても、これまでは「映画はこうすれば終わる」という帰着点みたいなことを、ある程度想定しながら作っていたんです。『SR サイタマノラッパー』(09)のような自主映画や『22年目の告白-私が殺人犯です-』(17)のような商業映画などでも、ここでエンドロールになるぞと確信めいたものがあった上で作ってきたのですが、今回はそれが全く無い状態で撮影に入りました。杏というキャラクターを全て分かることは出来ないと思っていましたし、40代の僕よりも河合優実さんの方が歳も近いし、杏の本質に触れられる気がする。僕が何かを押しつけるよりも、河合優実さんを通して見せてもらった方が良いなと。そういう意図があって「今まで自分がやって来たことを捨てて、一緒に作り上げましょう」とお伝えしました。

杏が入っていた河合優実


Q:河合優実さんは完全に杏になっていたような感じすらしました。現場では河合さんとはどのようなことを話されましたか。

入江:撮影前には共演者と一緒に芝居を作り上げていく“エチュード”をやってもらい、特に母と娘の関係性などは、カメラが無い状態から作り上げていきました。河合さんは徐々に“杏という人”をつかまえていっているような感触がありましたね。カメラテストの時に衣装を着て歩いてもらったのですが、ちょっと内股で歩幅が小さくなっていて「あ、これはもう杏だな」と。そのときに既に、河合さんの体の中には杏が入っていたのだと思います。そこからはほぼ何も言ってないです。こういうふうに喋ってほしいとか、こういう表情をしてほしいとか、そういうことも一切言いませんでした。

Q:今回はリハーサルを丁寧にやられたそうですが、普段からリハーサルは重視されるのでしょうか。

入江:普段はまったくやりません(笑)。僕はリハーサルで芝居を固めすぎたり、意見を押し付けてしまうのは嫌なので、俳優さんが当日現場に持って来たものを見せてもらうのが好きなんです。ただ今回は、母によるDVシーンなどもあるため、河井青葉さんと河合優実さんの母娘の関係性を構築するために、リハーサルというよりも二人と話し合いをするところからはじめました。ただ話しているだけでは取っ掛かりがないので、同じ部屋にいる母と娘は、どういうふうに会話が進み、どう暴力が起きるのかを、仮の台本を用意して演じてもらいました。そうすると、「あれ? 脚本を書いたときに想像していたのと違うな」となる。僕自身が男兄弟で育ったこともあり、母と娘の関係性に無知な部分があったんです。さらに演じた二人からの意見もあった。それを家に持ち帰り脚本を直し、次の日にまた持っていって演じ直してもらいました。

初めての作業だったので迷いながらでしたが、でもやって良かったです。今までの自分はそういう作業をサボっていたなと反省しました(笑)。また今回は、実話が元にあったことも大きかったかもしれません。元になった家庭や事件は実際に見ることは出来ないので、追体験してみたところもあったと思います。

『あんのこと』©2023「あんのこと」製作委員会

Q:スタッフやキャストに何か具体的に伝えたことはありますか。

入江:環境づくりについては伝えました。最近は働き方改革のおかげで労働条件等の改善は自明のことになっていますが、その一歩先を目指して、俳優がやりやすい環境を作るため皆で一緒に工夫をしましょうと。例えば、映画の後半に幼児が出てきますが、その子のお昼寝の時間はちゃんと確保してあげて、元気なときに撮影をするとか、河合さんも精神的に追い込まれるシーンが続くので、重いシーンは1日一つにしましょうとか。今回はさまざまな種類の暴力や悲しみがあるので、俳優がなるべく健全に仕事ができるように、スタッフにお願いしました。そうやって環境を整えると、俳優もスタッフも自然と充実していくものだと分かりました。

同世代の濱口竜介監督や三宅唱監督のインタビューを読むと、僕なんかより環境づくりを徹底されていて、勉強させてもらったところはあります。例えば、撮影のロケーションを一つ選ぶにしても、俳優さんが歩きながらも役になっていけるような場所を探したりするのですが、今回でいうと杏が住んでいた団地はかなり綿密に選びました。実際にカメラを回す前に河合さんにも歩いてもらい、「彼女はどうやって家に帰って来ているのだろうか?」と探ってみる。そういうことをやっていくうちに、衣装も髪型もだんだんフィットして杏になっていく。そういう積み重ねの大事さにも今回初めて気づかされました。

スタッフ皆が河合優実に惚れていた


Q:現場の雰囲気はどんな感じでしたか。

入江:現場の雰囲気は意外と明るかったですよ。今回はスタッフのキャラクターもありましたね。撮影の浦田秀穂さんの持ち前の明るさもあって、すごく朗らかな感じでした。みんな「ここはこうしたらいいんじゃないですか?」とか、「このくらいの陽のタイミングで撮ったら綺麗だと思います」とか、どんどんアイデアを出してくれて賑やかでしたね。

Q:スタッフ・キャストの目指す方向にブレがなく、それぞれから多くの提案があったようですが、これは普段の現場とは違ったのでしょうか。

入江:今回に関しては、河合優実という人にみんなが惚れていたんです。『PLAN 75』(22)で河合さんと一緒だった撮影の浦田さんや照明の常谷良男さんは、「今回はどうアプローチするのか楽しみだ」と言っていましたし、それ以外のスタッフも彼女が演じた瞬間に「すごい!」となっていた。「これはただ事ではないぞ」「杏という人を真剣に見つめないといけないぞ」と、皆に一体感が生まれていたところがありました。撮影クルーのまとまり方って多種多様なのですが、今回は初めてのケースでしたね。『あんのこと』というタイトルのように、みんなが杏のことを考え続けていた。これはやはり河合優実さんの力が大きいと思います。

『あんのこと』©2023「あんのこと」製作委員会

Q:カメラマンの浦田さんは今回初顔合わせでしょうか。スタッフィングの経緯を教えてください。

入江:浦田さんとは昔ドラマでご一緒したことがありました。『PLAN 75』が素晴らしくて、特にラストカットに光の美しさがあった。あれはその時間を的確に捉えているからこそ撮れた画だと思います。『あんのこと』はモチーフが暗い話ですが、暗さだけじゃないものも必要だと考えていました。そこで浦田さんの光の表現とつながったんです。ただ、浦田さんは手持ち撮影が多いのですが、僕は普段手持ちを好んで使うタイプではない。そこはどうかなと思っていたのですが、見ているとだんだん面白くなって来た。だったら自分ではあまりコントロールせずに、偶然の出会いのようなものに賭けてみるのも面白いかなと。

Q:映画で作ろうとしている世界観や想いは、いつもスタッフに伝えているのでしょうか。

入江:いつもは伝えていますね。ただ今回は、実話を元にした映画が初めてだったこともあり、脚本を書きながら今までとの違いを感じていました。自分の世界観を押し付けるとモデルになった人たちに対して失礼になるだろうと。むしろ向こうの話を聞かせてもらうような感じで「そっちはどうでしたか?」「このとき何を思いましたか?」と、そのときのエッセンスを僕らが感じられたらいいと思ったんです。そういう意味では、自分から何かを形にはめていくようなことは、今回はするべきじゃないと思っていました。

Q:エンタメの大作と小規模な作品で違いを感じることはありますか。

入江:大作になると、関わる人が多くなるというのはありますね。それは良いことも悪いことも両方ある。今回『あんのこと』が良かったのは、ちょうど良い規模感だったこと。関わる人が多いとそれだけ色んな意見が出てくるので、それに対して一つずつ対応する必要がある。今回はそんなに人が多くなかったので、全員がお互いの顔を見ながら話せる環境でした。一枚岩になっている感じもあり、すごく作りやすかったですね。例えば撮影の浦田さんが「こういうシチュエーションでも撮ってみない?」と急に言ったとしても、「まだ時間があるから行ってみよう」とパッと行って撮ることが出来た。大作になるとそうは出来なくて、各部署の人数が多いから恐竜の大移動みたいになってしまう(笑)。それゆえ断念しなければならない瞬間が出てくるのですが、ある程度規模が小さいとパッと移動して試すことが出来る。そこはやっぱり良いところでしたね。

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監督/脚本:入江悠

2009年、自主制作による『SRサイタマノラッパー』が大きな話題を呼び、ゆうばり国際ファンタスティック映画オフシアター・コンペティション部門グランプリ、第50回映画監督協会新人賞など多数受賞。2010年に同シリーズ『SRサイタマノラッパー2 女子ラッパー☆傷だらけのライム』、2012年に『SRサイタマノラッパー ロードサイドの逃亡者』を制作。2011年に『劇場版 神聖かまってちゃん ロックンロールは鳴り止まないっ』で高崎映画祭新進監督賞。『AI崩壊』(20)で日本映画批評家大賞脚本賞。その他の作品に『日々ロック』(14)、『ジョーカー・ゲーム』(15)、『太陽』(16)、『22年目の告白-私が殺人犯です-』(17)、『ビジランテ』(17)、『ギャングース』(18)、『シュシュシュの娘』(21)、『映画ネメシス 黄金螺旋の謎』(23)など。

取材・文:香田史生

CINEMOREの編集部員兼ライター。映画のめざめは『グーニーズ』と『インディ・ジョーンズ 魔宮の伝説』。最近のお気に入りは、黒澤明や小津安二郎など4Kデジタルリマスターのクラシック作品。

撮影:青木一成

『あんのこと』

6月7日(金)新宿武蔵野館、丸の内TOEI、池袋シネマ・ロサほか全国公開

配給:キノフィルムズ

©2023「あんのこと」製作委員会

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