「女性裁判官が誕生する日は近い」と確信…『虎に翼』寅子のモデル・三淵嘉子役人から知らされた〈驚愕のひと言〉とは?

(※写真はイメージです/PIXTA)

4月から放送が開始された連続テレビ小説「虎に翼」。その主人公のモデルとなった「三淵嘉子」は、司法科試験に合格し実務経験が豊富だったにもかかわらず、裁判官になる前に司法省(現在の法務省)での勉強を命じられます。本記事では、青山誠氏による著書『三淵嘉子 日本法曹界に女性活躍の道を拓いた「トラママ」』(KADOKAWA)から一部抜粋し、三淵嘉子の下積み時代と、当時の雇用における男女の扱いの差についてご紹介します。

女性裁判官採用の可能性

「戦後、出征していた夫が引揚途次に戦病死したので私は経済的自立を考えなければならなくなった。それまでのお嬢さん芸のような甘えた気持から真剣に生きるための職業を考えたとき、私は弁護士より裁判官になりたいと思った」

『追想のひと三淵嘉子』の中で本人が語っている。夫が亡くなった頃から、それについては考えていたようだ。

原告と被告の言い分をよく聞き証拠を調べたうえで、これを法に照らしあわせて公正中立な立場で判断を下す。それが裁判官の仕事だ。審理を進めるにあたっては司会者的な役割もある。学生時代からリーダーシップを発揮してクラスをまとめてきた嘉子には、その適性がありそうだ。

そのことについては法律家を目指した頃から、自分でも少し考えていたようである。が、当時の司法官試補採用の告示には「男子に限る」という文言があった。女性だからという理由で、自分に向いていそうな仕事に就けない。司法科試験の会場ではじめてその事実を知った時のことを思いだすと、いまも怒りが込みあげてくる。

しかし、時代は変わった。昭和21年(1946)11月3日に公布された日本国憲法は、民主国家としては当然のことである「男女平等」を保障している。新憲法施行後はそれにあわせた法整備が進み、女性の社会的地位は格段に高まってゆくだろう。女性への職業差別は撤廃され、いずれは女性の裁判官や検事も誕生するだろう。

その根拠も得ていた。嘉子は戦後間もない頃に司法省(昭和27年「法務省」に改称)の役人と面談した時、

「戦前はなぜ女性を行政官に採用しなかったのですか?」

昔から疑問だったことについて問うたことがある。するとその役人の口から、

「女性を不採用とする法律上の規定は、当時も存在しませんでしたよ」

と、意外な答えが返ってくる。しかし、戦前の民法では結婚している女性が仕事をする場合、夫の同意が必要とされていた。夫の同意がなければ何もできない「無能力者」として扱われていたのである。無能力者に国の重要な仕事である行政官や裁判官は任せられない。と、それが女性を裁判官や判事にしない理由だったという。

三淵嘉子が「資格」を有していてもすぐには裁判官になれなかったワケ

役人の説明を聞いた嘉子は、日本に女性裁判官が誕生する日は近いことを確信するようになった。男女平等を保障した日本国憲法のもとで、それには不具合な戦前の民法はまもなく改正されるだろう。妻が自分の意思で自由に働くことができるようになれば、女性裁判官の採用を阻んでいた障壁は取り払われる。

弁護士の研修を終えてその資格を有している者ならば、裁判官や検事になることもできる。

「自分には裁判官になれる資格があるはずだ」

と、長い眠りから覚めた嘉子は、出現した目標に向かって突き進む。憲法が公布されてから約4ヵ月後の昭和22年(1947)3月、彼女は民法の改正を待たずに司法省人事課に出向いて裁判官採用願を提出している。

戦前から三権分立の原則はあったのだが、裁判所の人事を含めた司法行政権はすべて司法省が握っていた。司法省でも日本国憲法に男女同権が明記されていることの意味、それは当然理解している。しかし、裁判官採用願を出してきた女性は嘉子がはじめて。これをどう処理したらいいものかと、人事課の担当者は悩んだようだ。

頭では理解しても、はじめてのことには腰が引けて実行をためらうのが役人気質である。自分では判断することができず、東京控訴院長の坂野千里(ちさと)に嘉子を面接させることにした。

控訴院は旧憲法下の裁判所のひとつで、現在の高等裁判所に相当する。そちらに委(ゆだ)ねたのである。そして、彼女を面接した坂野院長は、

「女性裁判官が任命されるのは、新しい最高裁判所の発足後のほうがいいでしょう。しばらくの間は、司法省の民事部で勉強しなさい」

との判断を下した。女性裁判官の任用には時期尚早ということか。

新しい憲法にあわせて裁判所法の改正もおこなわれている。大審院を廃して最高裁判所を設置し、司法省が持っていた司法行政権は最高裁判所に移管されることになっている。裁判所を司法省から独立させて、三権分立の原則を完全に機能させるための措置だった。

戦前は全国7ヵ所の控訴院の他に司法省裁判所、司法省臨時裁判所、府県裁判所、区裁判所など様々な種類の裁判所が置かれていたのだが、こちらも最高裁判所を頂点に高等裁判所、地方裁判所及び家庭裁判所として整備再編されることになる。その作業で司法省や大審院は大忙しのようだった。女性裁判官を配属すれば、その対応にも追われるだろう。この時期にそんな面倒事は避けたい。

また、嘉子のスキルも疑問視されていたようだ。司法官試補の研修を受けていない者をいきなり裁判官に任命するわけにはいかない。まずは司法省民事部で仕事をして、裁判官に必要な知識を身につけてもらう。そうするうちに、裁判所の整備事業もひと段落して、女性裁判官を受け入れる余裕もできるだろうということか。

嘉子は昭和22年(1947)6月から司法省民事部に勤務するようになる。

司法省民事部で働いた「下積み時代」に三淵嘉子が得たもの

桜田門(さくらだもん)南方の桜田通りには戦前から司法省と大審院、海軍省などが並んで建っていた。いずれも明治期の官庁集中計画により整備された庁舎で、赤煉瓦(あかれんが)の建造物が連なる眺めはじつに壮観。旧司法省庁舎は現在は法務図書館等に使用されており、東京駅と雰囲気がよく似たネオ・バロック様式の建物は「霞(かすみ)が関(せき)の女王」と呼ばれている。

その建築美は通りを歩く人々の目をいまも楽しませているのだが、嘉子が勤務していた頃の眺めとはかなり違う。

戦時中には霞が関周辺の官庁街も激しい空襲を受けた。多くの庁舎が爆弾で破壊され、司法省庁舎も被災している。当時はまだひどい状況だった。屋根や床は焼け落ちて赤煉瓦の壁だけが残り、まるで廃墟(はいきょ)のような眺めだったという。敷地内には瓦礫(がれき)の隙間に急ごしらえで粗末な仮庁舎が建てられていた。

嘉子は痛々しい戦争の爪痕(つめあと)が残る庁舎で、新しい民法の立法作業などを手伝うことになる。法律を学びはじめた頃、戦前の民法下では女性の地位があまりに低いことを知り愕然(がくぜん)となったものだ。自分が裁判官になれなかったのも、既婚女性を就労の自由がない「無能力者」としていた民法のせいだ。それだけに、男女平等の新しい民法ができることを喜び、その仕事に参加していることに誇りを感じていた。

また、この仕事を通じて多くの裁判官と話す機会にも恵まれて、先輩たちから裁判官のあり方や裁判の進め方などについても学ぶことができた。

「この間に学んだものが、その後の私の裁判官としての生き方の根幹になったと思う」

後になってから彼女はこのように語っている。有意義な時間を過ごしていた。

しかし、司法省に勤務して学ぶように言われた時には、かなり腹を立てていたようである。自分は司法科試験に合格した有資格者であり、弁護士としての実務経験もある。何をいまさら司法科試験に合格したばかりの者と同じに扱われて、研修のようなことをせねばならないのか、と。

だが裁判官になるにはそれに従うしか方法はない。まあ、給料が出るだけでもマシ。そう思って我慢したのだが。結果的には、短気を起こさずに坂野の言うことに従ったのは正解だった。

闇雲に突っ走るだけではない、立ち止まってよく考え我慢することもできるようになっている。彼女は戦時下で辛酸を舐(な)め成長していた。

青山 誠

作家

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