世界的ベストセラーが映画に。『ハロルド・フライのまさかの旅立ち』の脚本を手がけた原作者、レイチェル・ジョイス、インテリジェントなインタビュー。【髙野てるみの「シネマという生き方」VOL40】

日本を含む世界37か国で発刊されベストセラーになっている、英国の小説『ハロルド・フライの思いもよらない巡礼の旅』(現在は、映画と同名に改題)。発刊から時を経て映画となり、『ハロルド・フライまさかの旅立ち』というタイトルで日本でも2024年6月7日より公開される。
映画の脚本を手がけたのが原作者であるレイチェル・ジョイス。小説とは違う、映画の脚本に初めて取り組み、英国で大ヒットへと導いた。
自らの小説を映画にする時の脚本作りには、どのような工夫があったのか興味津々だ。その彼女の心境や映画制作への想いなどをうかがうことが出来た。

日本の本屋大賞でも2位を獲得した英国の小説が原作

レイチェル・ジョイスは小説家で、TVなどの脚本も手がけてきたという。本作の原作となった『ハロルド・フライの思いもよらない巡礼の旅』で、小説家デビューを果たし、2012年に英国文学界最高峰の賞であるマン・ブッカー賞にノミネートされる。
同時にナショナル・ブック・アワード新人賞を受賞。2014年には英国年間最優秀作家賞の最終候補者にも選ばれた。
原作はまた、日本でも2014年・本屋大賞翻訳小説部門で2位となり、高く評価された英国の小説として愛読され続けている。
映画公開を機に、原作も映画タイトルに改題されて文庫化されている。

退職して、長年連れ添った妻と平凡な晩年を送る一人の男が、思いがけないことをきっかけに巡礼にも似た旅をすることになる。その時間は、それまでにやり遂げられなかったことばかりだった人生を、取り戻せるのかどうか。読者や観客に追体験させる物語だ。

手紙を出すつもりが、そのまま800キロ先の病院に向かう旅

65歳のハロルド・フライに元同僚の女性から、末期癌でホスピスにいるという手紙が届く。彼は20年も会っていない彼女への返事に戸惑い、「お大事に」と一言書いて郵便ポストに投函しようと家を出る。
その途中で言葉を交わした若い女性に、死を間近にした友人のことを話すと、彼女の叔母は励ましの言葉で病気が良くなったということを知らされる。
その一言が彼を揺り動かし、無謀にもそのまま手ぶらで800キロ先にある、元同僚の入院している病院まで行くことを決めるのだった。
自分にだって、これからでもそのくらいのことは出来る。
そういう想いで奮い立ったハロルドだった。
亡くなる前の友人には直接伝えたいこともあったから。
自分が行くから、それまで生きていて欲しいと、病院に伝言してひたすら歩く。前に足を運ぶだけの日々。
妻はそれを知って大反対するが、ハロルドを引き戻すすべもない。英国縦断にも近い距離を歩く、年老いた男の挑戦は大勢の知るところとなり応援に駆けつける面々も出てくるのだが……。果たして彼は念願の場所へ辿り着き、友人に想いを告げることが出来るのか。

無謀な挑戦は、人生を美しくも過酷に、凛として照らし出す

ここまでの流れを知ったら、誰もが年老いた一人の男の挑戦の物語だと思うかもしれないが、この作品はそんな単純なものではない。
彼が野宿も覚悟で、過酷な試練を承知でスタートした驚きのロード・ムービーで終わらないところが、この原作と本作の秀逸なところなのだ。
もちろん映画では、彼が財布や時計やクレジット・カードなども持たず、スニーカーも履かず、履きふるした皮靴をすり減らして進んでいく中、英国の美しい風景も見てとれて、いながらにして英国の旅の気分も味わえる。
しかし、彼がたどる一歩一歩は、彼の今まで生きてきた人生の反芻の歩みにもなっていくのだ。
誰の人生にもある、やり直したいことや、とり戻したいこと。それらはもうどうしようもないことばかりなのだが、それでもまた、これから出来ることもあるということを信じることになる、思いがけない旅の時間。
その想いは映画にことさら説明されるわけでもなく、その時、その時、彼が眼にする情景や、出会った人々との交流などから感じさせてくれる。彼の心の変化が観る者の心へと染み渡っていくところが本作の巧みなところで、ジワジワと感動が広がっていくのだ。
何気ない日常の風景、木々のざわめきや道端の草、光が注ぐ煌めきなど、忙しい日常では忘れかけているような小さな発見が、きめ細かな映像表現で静かに訴えかけて来る。それは天からの声のように崇高にさえ感じられるのだ。
そんな場面の数々で、驚きや癒しなどを観る者にギフトの様に与えてくれる映画である。
加えて、伝承音楽に影響を受けているというサム・リーの劇中曲とあいまって、わけもなく泣かせられてしまう。
そして、ハロルドの巡礼にも似た歩みが進むにつれて、実はわだかまりを持ち続けてきた夫婦と家族の事実が赤裸々にされていくという、シリアスでスリリングな側面も見せつける。
人生とはそういうものだという、鋭いまなざしも忘れないレイチェル・ジョイス。凛とした美しい作品である。
そんな映画に出会えたことは嬉しいことであるが、やはりハロルド・フライが憑依したかのような、ジム・ブロードベントの存在が圧倒的だ。彼はリチャード・エアー監督『アイリス』(2001)でアカデミー賞、ゴールデン・グローブ賞を獲得した、英国を代表する俳優だ。近作としては、ロジャー・ミッシェル監督『ゴヤの名画と優しい泥棒』(2020)でも知られる。
加えて、夫を次第に応援し出す妻を演じたペネロープ・ウィルトンの実力も発揮されている。

光を意識した映画づくりをイメージした脚色

──脚本家の方をインタビューするのはこの連載では初めてなので、とても嬉しいです。この作品を観終わって、凄い!って言うことしかなかったんです。映画としての完璧度に圧倒されて胸がいっぱいになりました。映画でしかできない表現、例えば光の具合一つにも感動させられました。
奇跡が起きたのではないかとさえ感じる場面がたくさんあって。

そういう場面が惹かれる瞬間でしょうね。重要な瞬間だと思います。脚本を書き進める中で、光というものが、映画的に考えたらすごく使えるんじゃないかと。
特に、ハロルドの心情、あるいはどんな変化が起きているのかということを表現するのに使えると考えました。彼が歩いた以上のことが、その瞬間起きているような、宇宙が関与しているような、より大きなもの、あるいは意味合いを持っているんだということを表現しているシーンが生れましたね。

──素晴らしいです。

自分で自分の原作を脚色していくわけですから、その中で思いついたシーンなのですが、そういう瞬間がハロルドだけでなく、ハロルドの旅路に触れた人々の人生で、自分にとってどういう意味を持つのかということを魅せることが出来たと自分でも思っています。

原作と同じくらいのクオリティになった稀有な映画

──そういった指示は脚本に全部お書きになったんですか?例えば路傍の草が露に濡れて風に揺れているとか、すごく細かなところが胸を打つわけですが、そういった細かいところまでも。

かなり、ディティールまで細かく書きました。たくさん何稿も書いたんですよ。それでも、映画の尺というものがあるから、長すぎるなと思ったら、そこから少しカットしていかなければいけないですね。
でも、すごく面白い部分とかを完全に取り外しても、その痕跡っていうのは残るんですよね。最初からもし、その事に触れてなければ、そもそも存在すらしないということになるんですが、一度存在したからこそ、それを次に改稿したときに、それがシナリオから無くなったとしても、残り香みたいなものが残るものなんですよね。

──凄いですね。

撮影監督が非常に優秀な女性の方で、すごく細かく書いた私の脚本を読んで、こういう瞬間も撮っておこうという姿勢や鋭い目を持っていらっしゃった。また、別のクルーも主人公のジム・ブロードベントさんの演技以外に、いろいろと映像をたくさん撮って下さったんです。
そういうものが組み合わさって出来た作品です。ですからあのように、凄く感受性豊かな美しい作品になったと思います。

──そうでしたか。原作者のジョイスさんご自身がそれだけ満足した映画が出来上がったということですね。よく言われることですが、「映画は原作を超えたか?」などということについては、いかがですか?
もちろん原作はジョイスさんがお書きになっているわけですが、今回は映画が原作を超えたと?

おっしゃるように、私が原作も書いているので答えるのは難しいけれど(笑)、この映画はとても美しい形で小説の物語を支えてくれている、そういう映画になったということをとても嬉しく思っています。
よくあることですが、確かに原作を読んで出来上がった映画を観た場合、頭の中で描いていたのと違うなとか、ちょっとがっかりするということがありますけれど、この作品は原作をしっかりと反映させていながら、映画だけを見てもしっかりと成立している。そこに真実がちゃんとあるんですよね。両方がちゃんと出来ているというのは稀有な演出だと思います。

小説に描くことを実際に知ってこそ、読者に想起させられる

──小説と映画、それぞれを別物としても楽しめるということですね。

同じ物語ですから、最終的にはストーリーとしては同じように感じるのかなぁとは思っています。ただ、映画がもたらしてくれるものの一つは、息を呑むようなビジュアル。先ほどおっしゃっていましたけれど、やっぱり物書きとしましては、例えば自然の路傍の草みたいなものを、筆致として言葉に著すのはすごく難しいことでもあります。
そこを見せられるというのが映画というもの。いくつかヒントのように示唆をして、観客がヒントに合わせて、こういうことを考えているのかなって、たどり着いてもらう形を取ることが多いと思うんです。小説でもやれることではありますけれどもね。
逆に、小説だから出来ることは、人間の思考に深く入っていけることだと思います。プライベートの人の心理に入っていけるっていうのはあると思うんですよね。

──そうですね。

もたらしてくれるものが本と映画では違うんだと思います。どちらに対してもちゃんと敬愛を持って、読んだり、観たりすることができれば、どちらにも等しく価値があると思いますね。

──原作を書いたのは10年くらい前ですかね?

12年くらい前です。

──その頃、書いている時に映像が浮かんでくる、みたいなことはあったんですか?

見えてましたね。元々自分にとって、自分が書いている場所を知るっていうことは重要なことなんです。例えばその風景を知っていると、当然ビジュアルは浮かんできますよね。
小説を書く場合、見たことがないような場所で、それが舞台になる場所でしたら、なるべく実際に見にいくようにしています。
それはなぜかというと、読者へのヒントとなるディティールとして、そこがどういう場所なのか、例えば匂いであったり、暑さの表現であったり、筆者がそういうことをクリアにしていればしているほど、読んでいただいた時に読者は想起しやすくなると思うからです。

素晴らしい完成度は、逆境も乗り越える女性パワーのおかげ

──なるほど、なるほど。原作が素晴らしく、脚本も素晴らしい。監督さんも、撮影監督さんも、主演のブロードベントさんも、これだけ才能のある人たちが集まっても映画ってここまでうまくいかないこともある中で、これだけまとまった完成度ってなぜ生れたのか。
へティ・マクドナルド監督も、舞台となる場所を見に行っていて、それが成功の一つの理由かもしれないとおっしゃっていますね。また、ジム・ブロードベントさんの実力で、とも。
ジョイスさんとしては、どうしてこの奇跡のような完成度が結実したと思いますか?

今回の作品は恵まれている、幸運だったと正直思っています。ちょうどパンデミックのすぐ後に撮影した作品で、非常に苦労も多かったんです。ブロードベントさんもコロナ・ウイルスに感染などすることなど一度もなくて、病気にならないで撮影することが出来たんですよ。

──それはラッキーでしたね。

ただ、5週間かけて、キャストはしなかったけれど、スタッフたちは主人公と同じように実際に旅をした。そういう過酷な撮影でもあったんです。天候のことをみんな考えていなくて、最悪な天候ばかりだったそうなんです。しょっちゅうみんな濡れていて、そんな中よく映画になったな、作れたなと思っています。

──それは大変でした。

雨が止むのを待ったりとか、光が差した瞬間を狙ったりとかした結果ではあるんですけれど、スタッフも70人くらいにどんどん増えていって……。それでも、この物語と私の書いた脚本と主役の二人に対して心に響くものがあったのでしょう。やっぱり全員に毅然とした決意があったんだと思います。この私の物語を映画として形にするために、逆境ではあっても多種多様のスキルをもたらしてくれたんですね。
曇りの時は、上手にお日さまのような光を作ったり、それも大きな照明器具とかで作るのではなく、そこに存在している光をうまく反射させたりなんかして、光を作っていたりした。
今回のクルーは女性がすごく多かったそうです。各部署のトップが全員女性で、制作チームの方々も女性が多かったですね。

──それが良い方向へと反映されたっていうことですね。女性力に脱帽ですね。
今回の映画は、ブロードベントさんが主演して日本でも人気が出た、ロジャー・ミッシェル監督『ウィークエンドはパリで』(2013)を製作した、ケヴィン・ローダーさんがプロデューサーですね。依頼があって脚本を引き受けたのですか?

そうですね。小説がありますと、やはり映画化したいということになりますから、今回はいろいろな方々からオファーというか、アプローチがありました。その中から選んだのは、一番価値観が近く、作品に対してのフィーリングも同じで、それを映画に反映させようとしている方に決めました。

30代家族の物語にも取り組んでいる

──脚本を手がけるなら監督も、という気持ちはなかったのですか?ジョイスさんは俳優のご経験もあるから、ご自身が出演するような役柄を作ってしまうことも出来たのでは?

確かに以前は演技をしていたけれど、とてもじゃないですが、出演する気はありませんでした。監督をしたいとかも思いませんでしたね。

──次回はぜひ、監督もなさってください(笑)。そもそも、こういう人生の晩年を送っている人物を主人公にして、小説をお書きになるということにこだわるのはどうしてですか?

『ハロルド』に関しては三部作になっています。家で物静かに、何もすることもなく、仕事を引退したら人生の全てが止まったかのように過ごせばいいんだと、周囲や社会から思われてきた世代に対して、何か物語を与えたい、分かち合いたいという想いがあって書いてみたんです。
本作の物語は仕事を引退して、それで全てが終わっちゃったのかと一瞬思うのだけれど、旅をしていろいろな経験をして、まだまだ自分は人に与えられるものも持っているし、もっと冒険をして、知り得たいこともあるんだって感じるようになる。そういう人物の物語です。
ただ、今書いているのは30代の家族の物語で、誰が主人公になるかで『ハロルド』とは変わっていくと思います。

──それは素晴らしい。ぜひ、その作品の脚本も監督もなさって映画にして下さい。貴重なお話しをありがとうございました。

(インタビューを終えて)
オンラインでのインタビューであったが、レイチェル・ジョイスは愛猫と共に登場。エレガントで知性溢れる身のこなしが際立っていた。
質問についてもきっちりとお答えいただき、終始インテリジェンスを感じさせる真摯な対応に感服させられた。
お話の中でも、ご自身の小説が思う以上の映画となって世に出たことには、女性スタッフの力が大きかったという発言が印象に残る。
ジョイスを始めとする英国の女性の才能が、これからもますます際立っていくことに大きな期待が持てた。

『ハロルド・フライのまさかの旅立ち』
2024年6月7日(金)より、
新宿ピカデリー、ヒューマントラストシネマ有楽町、シネ・リーブル池袋ほか全国公開
監督/へティ・マクドナルド 
脚本・原作/レイチェル・ジョイス『ハロルド・フライのまさかの旅立ち』(亀井よし子 訳 講談社文庫)
撮影監督/ケイト・マッカラ
製作/ケヴィン・ローダー
出演/ジム・ブロードベント、ペネロープ・ウィルトンほか
原題/The Unlikely Pilgrimage of Harold Fry Fry
日本語字幕/ 牧野琴子
提供/松竹、楽天
配給/松竹
後援/ブリティッシュ・カウンシル
2022年/イギリス/英語/108分/ビスタ/カラー/5.1ch
©Pilgrimage Films Limited and The British Film Institute 2022

映画『ハロルド・フライのまさかの旅立ち』公式サイト|2024年6月7日(金)公開

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