山川恵津子「編曲の美学」1,000曲を超えるアイドルポップスの名曲を残した職業作家の足跡  女性アレンジャーの草分け、山川恵津子の輝かしい軌跡

女性アレンジャーの草分け、山川恵津子

ここ数年、日本の音楽シーンの中で研究が進んでいる分野が、編曲家=アレンジャーの仕事である。歌謡曲やポップスの分野で、編曲家の役割の重要性が語られるようになり、多くの名アレンジャーたちの仕事が音楽ファンにも認知されるようになった。

その中でも以前からコアな音楽リスナーやシティポップ・ファンの間でその才能の凄さが語られてきたのが、作曲家 / 編曲家・山川恵津子である。80年代半ばに頭角を現し、アイドルポップスを中心に、数多くのアレンジを手掛けてきた山川は、この時代の日本では極めて珍しかった、女性アレンジャーの草分けとも言える存在。

このたび、5月17日に著書『編曲の美学』を刊行、5月29日にはCD-BOX『編曲の美学 山川恵津子の仕事』をリリースするなど、俄かに注目が集まる山川恵津子とはどんな人物なのか? その足跡をここに紹介したい。

音楽シーンを下支えする名アレンジャーが集結していたヤマハ音楽振興会

山川恵津子は1956年、京都に生まれる。高校2年生の時に、同級生から誘われ、ヤマハのポピュラーソングコンテスト(ポプコン)に応募。この時の同級生は高校3年でプロ契約して、キングレコードからシンガーソングライター古谷野とも子としてデビューしている。

山川はポプコンのステージで歌った経験が、それほど心地良くはなく、自分はフロント向きの人間ではないと思い、それでも音楽に携わる仕事はないか… と考えたところ、知り合ったヤマハのスタッフにアレンジャーの道を薦められ、自身もそれが目指すところであったと述懐している。

大学進学後に、東京・目黒のヤマハ音楽振興会にアルバイトで通い始めた。ヤマハには研究室という、若手のアレンジャーが多く在籍する部署があり、山川はそこで、ポプコンの本選にノミネートされてきたアマチュア作品のアレンジを受け持ったり、イベント関連の仕事をするようになる。

山川とは入れ替わりで研究室を巣立って行ったのが萩田光雄で、他にも船山基紀、戸塚修などが在籍し、山川の後から入ってきたのが大村雅朗であったりと、その後の日本の音楽シーンを下支えする名アレンジャーが集結していた。この時期のヤマハには他にも林哲司、大橋純子なども在籍し、まるでミュージシャンの梁山泊、あるいは編曲家版のトキワ荘の如き様相を呈していたのだ。

ⓒヤマハ音楽振興会

谷山浩子の専属バンドでキーボードを担当

この時代のアレンジャーはほぼ独学という人が多く、山川恵津子も同様に、研究室で萩田や船山が書いたスコア(オーケストラなどの各パートの譜面をひと目で見られるようにした楽譜のこと。総譜ともいう)を見て勉強したという。

その間、スタジオ録音のアレンジのほか、キーボードプレイヤーとして、ヤマハ所属のアーティストのバッキングを受け持っていた時期がある。最初は谷山浩子の専属バンドでキーボードを担当、この時にギタリストとして参加したのが鳴海寛だった。その後、山川と鳴海は「みずいろの雨」が大ヒットしていた八神純子のバックバンドに移る。

さらに山川の特性として、アーティストのコーラスサポートができたことがある。のちの山川アレンジの特徴として、コーラスワークの秀逸さが挙げられるが、元々合唱部でコーラスには興味も知識もあったことが功を奏した。その後、松田聖子や小泉今日子のガイドボーカル(仮歌)も担っている。

八神順子に提供した「Be My Best Friend」で作曲家デビュー

その後1980年、山川恵津子は八神順子に楽曲提供した「Be My Best Friend」で公式に作曲家としてデビュー。その翌年には、前述のギタリスト鳴海寛とともに男女デュオの「東北新幹線」を結成。82年にはアルバム『THRU TRAFFIC』を発表し、アーティストとしてもデビューを飾った。

『THRU TRAFFIC』は、ここ数年のシティポップのブームの中で、フリーソウルや和製AORの名盤として高い評価を受けている。緻密なアレンジと演奏力、ハイクオリティなサウンド作りは、この時代にあっても驚愕の内容だが、実のところ当時は全く注目されなかったそうだ。

バッキングには羽田健太郎、後藤次利、高水健司、山木秀夫、浜口茂外也、中西俊博ら凄腕プレイヤーたちに加え八神純子もバックコーラスで参加。AOR的な鳴海のサウンドと、スティーヴィー・ワンダーやアース・ウィンド&ファイアー、あるいはモータウンなどのソウルミュージックに影響を受けた山川の、両者のセンスが高いレベルで融合された、"早すぎた名盤" だったのである。

このアルバム1枚を残し、山川はその後アレンジャーとして本格始動する。もともと自身も、シティポップではなく、この時代のメジャー音楽シーンの本流であるアイドルポップスのアレンジを目指しており、実際に次々と手がける作品は、圧倒的に女性シンガー、それもアイドルシンガーの楽曲が多かった。

おニャン子クラブのプロジェクトにもスタートから参画

初期の名アレンジとしては、アグネス・チャンが83年に発表したアルバム『Girl Friends』の全アレンジを手掛けており、中でも荒井由実の提供作「愛を告げて」や矢野顕子提供作「ひとつだけ」のリアレンジの腕は際立っており、アグネスのシティポップアルバムと呼んでもいいほどの完成度である。

1985年、岡本舞子の「愛って林檎ですか」から継続して作曲 / 編曲を手がける。ことにファーストアルバム『ハートの扉』は全曲が山川の作曲 / 編曲で、グルーヴ感溢れるシンセポップに絶妙のコーラスワーク、フィル・スペクター風のウォール・オブ・サウンドなど様々な技を駆使して、ティーンズアイドルの煌めきを音で表現することに成功した。岡本舞子はまさしく山川の秘蔵っ子的存在であった。

同時に、おニャン子クラブのプロジェクトにもスタートから参画し、ファーストアルバム『KICK OFF』では佐藤準とほぼ半々でアレンジを分け合い、翌年のシングル「おっとCHIKAN!」やセカンドアルバム『夢カタログ』、3作目の『PANIC THE WORLD』でもアレンジ参加。「避暑地の森の天使たち」や「アンブレラ・エンジェル」など、おニャン子印とも呼べるシャッフルビートのポップスを提示。

さらに新田恵利や渡辺満里奈などのソロ作品も数多く編曲、ことに渡辺満里奈作品には大きく関わり、セカンドシングル「ホワイトラビットからのメッセージ」の間奏でのさりげない転調や最後に “#11th” を用いる閉じ方など、アイデアを駆使したハイセンスなポップスを提供している。

筒美作品のアレンジを任される次世代のアレンジャー

86年には小泉今日子「100%男女交際」で、同年の日本レコード大賞編曲賞を女性で初めて受賞。ベテランの岩崎宏美には、スウィンギンなワルツの「好きにならずにいられない」をはじめ、数多くの楽曲をアレンジ。筒美京平作品では真璃子「恋、みーつけた」「夢飛行」、石井明美「響きはtutu」などを編曲。鷺巣詩郎や武部聡志、新川博らとともに、筒美作品のアレンジを任される次世代のアレンジャーとして大きく注目されることとなる。

この時期は多忙を極め、アレンジを手掛けたアーティストを列挙するだけでも、CoCo、Qlair、松本典子、三浦理恵子、生稲晃子、つちやかおり、松原みき、西村知美、立花理佐、森川美穂、長山洋子、鷲尾いさ子、奥菜恵、小山茉美、芳本美代子、酒井法子、マリーンなど、アイドルからシティポップ、フュージョン系シンガーといったジャンルで活躍。さらには小山茉美や中島愛といった声優、アニソン系シンガーやビートたけし、野村宏伸など男性歌手まで実に幅広い。

山川恵津子の音の楽しさに溢れた芳醇なサウンド

アニソンの名曲、小幡洋子の「不思議色ハピネス」では2小節ごとにコード進行を変え、やはりアニソンの志賀真理子「金のリボンでROCKして」では主メロと別に完成度の高いカウンターメロディーを取り入れた。日本テレビ系ドラマ『妻たちの危険な関係』主題歌となった風見りつ子の「アヴァンチュリエ」では冒頭のフランス語をサンプリングし、リバースにしたりと新たな試みにトライしている。

また、児島未散「なまいきCing」ではスティーヴィー・ワンダーへのオマージュを披露、Qlair「リボンのないプレゼント」は打ち込みと生楽器の融合に加えユニゾンのコーラスラインを導入するなど、とにかく1曲ごとにアイデア満載。どれもこれも80年代後半から90年代の贅沢なサウンドメイクだが、1つとして同じタイプの作品はないのに、トータルで聴くと紛れもない山川節になっているところが凄すぎる。

80年代後半のポップシーンに、華やかでセンスに溢れ、さりげなく高度な技法のアレンジを施し、リリースから40年近く経った現在でも、十分に「今の音」として鑑賞に耐え得る秀逸な作品群を生み出した山川恵津子。

もちろん現在もアレンジャーとして活躍しており、今回のBOXでも自身のボーカルによるジャンクフジヤマ「UTOPIA」や伊藤蘭「なみだは媚薬」のセルフカバーを収録している。この機会に是非、珠玉のアレンジによる、音の楽しさに溢れた芳醇なサウンドを堪能していただきたい。

カタリベ: 馬飼野元宏

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