【39歳で2児のママまんが家インタビュー】第二子を望んでの不妊治療の日々。卵が採れなかったり、胚移植日と長女の保育園行事が重なったり・・・

藤本さん一家(左から長女7歳、夫、藤本さん、二女4歳)。

不妊を心配したことがある夫婦は2.6組に1組。また、不妊の検査や治療を受けたことがある夫婦は4.4人に1人と、年々増加しています(※)。年齢とともに妊娠率は徐々に低下し、2人目がなかなか授からない「2人目不妊」に悩む人も少なくありません。

漫画家の藤本ハルキさんは、不妊治療で駆け抜けた日々を記したコミックエッセイ『不妊治療1800日~入院、闘病を経て39歳で二児の母になりました!~』を出版。この本は、不妊に悩むママたちの大きな共感を呼びました。藤本さんに2人目の不妊治療と、現在の2人姉妹の子育ての話を聞きました。全2回インタビューの2回目です。

※厚生労働省「不妊治療と仕事との両立サポートハンドブック」より(2021年調査)

<前編を読む> 妊娠を望んでいるのに妊娠できない・・・。33歳で不妊治療をスタートしたまんが家。流産を経験しながら体外受精でわが子に出会うまで

「また赤ちゃんを抱きたい!」と2人目の不妊治療へ

第二子の不妊治療を決意した藤本さん。©藤本ハルキ/海王社

――藤本さんは第一子を出産後、2年後に再び不妊治療を開始しました。そのきっかけは?

藤本さん(以下敬称略) 「もう一度、新生児の赤ちゃんを抱いてみたい」という思いがありました。最初の不妊治療を33歳で始めるときに「最長でも40歳までだよね」と夫婦で同意していたのですが、36歳で長女が生まれてくれて、1歳になり保育園に預けて育児に少し余裕ができたときに、「もう一度チャレンジしてみようか」と改めて夫と話し合いました。

でも人間ドックに行ったりして自分の体調やまわりの環境を整えていたら、あっという間に1年がたっていました。そして2年半ぶりに、長女のときにお世話になった不妊専門クリニックに行きました。

うまくいかない! 3年ぶりの治療再開にブランクを感じて…

2人目の不妊治療のハードルは思った以上に高くて…。©藤本ハルキ/海王社

――2人目の不妊治療はどのように進みましたか。

藤本 長女のときに使わなかった受精卵を、胚盤胞(はいばんほう)という状態にまで培養して冷凍保存していたので、それを移植することになりました。でも、長女を産んでから約3年たっていたこともあってか、着床したものの、その先はうまく進まなかったんです。

次はまた採卵からスタートすることになったのですが、私がクリニックで行っていたのは体にやさしいけれどたくさん採卵できない「低刺激法」です。しかも私は卵巣機能の目安になる「アンチ・ミューラリアン・ホルモン(AMH)」の値が同年代の人よりも低いことがわかり、あせりから気持ちが揺れ動きました。

「もう40歳まで時間がないし、別のクリニックに行って、今より体への負担がかかってもたくさんの卵子を採卵したほうがいいのかな?」と夫に相談したら、「たくさん卵が採れたとしても胚盤胞まで育つかどうかはわからない。大事なのは良質な卵が採れるかどうかということ。先生が提案している今の治療法でいいのでは?」とはっきり言われて、確かにそうだな、と思い直すことができました。

忘れられない、台風の日の胚移植

2人目の不妊治療をしていた時期の藤本さんの手帳。

――まんがのお仕事と不妊治療、どのように両立されていましたか?

藤本 長女が生まれて1年後に仕事の環境をデジタルにしたので、クリニックにタブレットを持ち込んだりして作業していました。私はそれでなんとか対応していたのですが、クリニックでは通勤帰りに上の子を連れてギリギリで駆け込む様子の人もいて、本当に大変だなと感じました。

――体外受精のスケジュールが決まっているうえに、お仕事に上の子のお世話、園のイベントなどもあって…。2人目の不妊治療は大変だといいますが、どうでしたか。

藤本 排卵の調整って、ギリギリのところで微調整をしていくので「この期間しかできません」ということが多々あって、なかなか融通がきかないんです。「この日に来ることができなければ今の周期はおしまいで、次の周期に持ち越し」と考えると、日々の優先順位はどうしても、採卵・移植を第一にせざるをえませんでした。

一番大変だったのは、大事な移植の日が長女の保育園の運動会に当たったときです。「移植は午後からだから、なんとか間に合いそう!」と思っていたのですが、台風の影響で運動会が延期に。それはよかったのですが、クリニックはどんなときも通常どおりなので、移植日に変更はありません。台風で電車が止まる可能性を考えて、長女を初めて長時間夫に任せて、クリニック近くのホテルに前泊しました。移植を終えたあとで電車が止まって帰れなくなったので、「これで妊娠しなかったら本当に心が折れるだろうな…」と思いながらホテルにもう1泊させてもらいました。

翌日の朝6時、保育園から「今日、運動会やれます!」と連絡があって、夫にあわてて電話しました。運動会は当然このまま再延期だと思っていた私たちは何も準備していなかったので、夫は着の身着のまま長女を運動会に連れていき、なんとか長女の写真だけは撮ったという感じで…(笑)。私は急いで帰宅しようとしましたが、電車が動かず運動会には間に合いませんでした。ただ、そのかいあってか、このときの移植で奇跡的に2人目を妊娠できました。

「どうして私は生まれてきたの?」と聞かれて

藤本さんのSNSでは、子どもたちとの日々を発信中。(Instagramより)

――「40歳で二児の母になりたい!」をかなえた今、毎日の育児はどうですか。

藤本 4歳の二女のおんぶやだっこがすごく大変です(笑)! 土日は午前と午後のそれぞれ2時間ずつ公園で遊び続けますし、保育園の帰りには絶対に公園に寄って30分くらい遊ぶのが定番コースです。小学生になった長女のスポーツ・トイにもつき合ったりして筋肉痛になるので、ストレッチを心がけたり、「子どもの遊びにつき合うのは自分の健康にもいいこと!」と思い込むようにしています。

これまでの育児で思い出深いのは、二女の出産後しばらくして、長女にかみつかれそうになってしまったときです。お姉ちゃんだからと我慢させていたわけではないのですが、二女を妊娠していたときにコロナ禍に突入したこともあって、入院中は会うことが難しかったし、出産後はおむつ替えや授乳でどうしても二女を優先しなければいけなくて…。そんなあれこれで不満が爆発したのだと思います。幸い、二女がよく寝てくれる子だったこともあって、それからはなるべく長女と一緒の時間を過ごすようにして、心のケアを図りました。それからは落ち着いてくれて、今では姉妹でたまにけんかもしながら仲よく過ごしています。

――『不妊治療1800日~入院、闘病を経て39歳で二児の母になりました!~』でも触れられていましたが、将来娘さんたちに不妊治療の説明を求められたら、どのように答えますか。

藤本 最近になって長女は赤ちゃんが生まれてくることに興味を持っていて、「どうして私は生まれてきたの?」などと聞いてくるようになりました。その中で「ママとパパは赤ちゃんが欲しいなと思っていたけれどなかなか生まれてこなかったから、病院の先生に『赤ちゃんはどうしたら生まれますか?』って相談に行ったんだよ」などと、なるべくていねいに説明しています。本人が理解しているのかはわからないですけど、「ふーん」と言っていて、そういうものなんだなと思っているようですね。

私の仕事部屋にある『不妊治療1800日~入院、闘病を経て39歳で二児の母になりました!~』をいつか読んで、子どもたちが「私は不妊治療で生まれたんだな」と改めて思う日がいつか来るかもしれません。そこで彼女たちがどんなことを思うのかはわかりません。でも、不妊治療で生まれてきたということ自体よりも、「あなたたちは、望まれて生まれてきたんだよ」という、私たち夫婦の思いは受け取ってほしいなと思っています。

お話/藤本ハルキさん 取材・文/武田純子、たまひよONLINE編集部

「友だちの出産報告なんて聞きたくない」と、人格さえも変わってしまった5年間の不妊治療。流産を経験してつらかった時期も【美容系YouTuber・あいり】

先が見えない不妊治療を、まわりの協力を得ながら5年間突き進んだ藤本さん夫婦の根底には「どのような結果になっても、後悔のないように」という思いがあったそう。常に夫婦で話し合って、そして綱渡りのスケジュールも夫婦連携でどうにか乗り越えられたと話してくれました。

藤本ハルキさん

PROFILE
BL(ボーイズラブ)、エッセイまんが家。自らの婚活体験を記した『BLマンガ家ですけど結婚してもいいですか?』(海王社)は2017年にテレビドラマ化。2022年に不妊治療を記した『不妊治療1800日~入院、闘病を経て39歳で二児の母になりました!』(同)を出版。2017年生まれの長女、2020年生まれの二女の二児の母。

藤本ハルキさん公式ホームページ

『不妊治療1800日~入院、闘病を経て39歳で二児の母になりました!』

「40歳までに二児の母になりたい!」と不妊治療をスタートしたまんが家・藤本ハルキさん。ところが予期せぬ発病やアクシデントに見舞われて…。家族と共に駆け抜けた1800日を記録した、実録コミックエッセイ。藤本ハルキ著/1100円(海王社)

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