最高傑作とされる「ヨーロッパ3部作」加藤和彦は細野晴臣や大滝詠一となにが違ったのか?  映画「トノバン 音楽家 加藤和彦とその時代」公開中!

__リ・リ・リリッスン・エイティーズ〜80年代を聴き返す〜 Vol.30 加藤和彦 / うたかたのオペラ__

強烈だった加藤和彦の存在感

「帰って来たヨッパライ」というめちゃくちゃ面白い曲があるんだけど、それは『オールナイトニッポン』という夜中のラジオ番組でしかかからない。だけど毎晩必ずかかる……

そういう都市伝説みたいな話を友だちから聞いたのは、私が中学2年の時(1968年)。いかんせんウチは大阪だったので、ニッポン放送は入りにくい。ただ、AMラジオは夜中だと電波状況がよくなるので、『オールナイトニッポン』はノイズ混じりながら、かろうじて聴くことができました。実際はまずラジオ関西でプッシュされて、広まっていったのですが、その時はそんなこと知らなかった。

で、中学2年なのでまだ受験勉強もせず、ふだん毎日8時くらいには寝ていた私にとって、夜中まで起きて、いつかかるとも知れない曲を待つことはたいへんで、たいてい途中で寝落ちしてしまい、なかなか聴けないのでした。ウチにレコードプレーヤーもなかったので、レコードを買うという発想は端からありませんでした。

結局、2、3回しか聴けなかったような気がしますが、それだけに、小躍りするほどうれしかった気持ちは記憶の底にしっかり残っています。そんな苦労をしないと聴きたい音楽が聴けないなんて、今の子供たちなら “バカみたい” とか “かわいそう” とか思うかもしれませんが、そのぶん聴けたときの感激は大きかった。まあ、同じものでも空腹なら倍美味しい、なんていうのと似たようなことかもしれませんが。でもああいう “幸せ” って今はないだろうなと思うと、ちょっと寂しくなります。

ともかく、それが加藤和彦さんの世の中への登場でした。テープの倍速再生による “ヘン声” という実験性と分かりやすい大衆性がミックスされたこの曲は、無名の京都の学生グループ、ザ・フォーク・クルセダーズを、一挙に全国のお茶の間へと引きずり出すほどのパワーを持った作品でした。それも、レコード会社など “大人” の力があったわけじゃなく、あとからその恩恵に与ろうと群がった音楽業界人たちは、続ける欲もなかった加藤さんたちに、頼み込んで1年限定で活動してもらったのでした。こんなカッコいい、ロックな登場の仕方があるでしょうか。フォークだったけど。

と思っていると、やがて、デヴィッド・ボウイやT・レックスに共感して、ほんとのロックに転身、サディスティック・ミカ・バンドを始めて、英国盤がリリースされたり、ビートルズにも関わったクリス・トーマスをプロデューサーに迎えたり、ロキシー・ミュージックのオープニングアクトだったけど、日本人で初めての英国ツアーも敢行しました。これが1972〜75年、YMOより何年も早かった。

そして彼の作曲家としての卓越した才能。フォークルの「悲しくてやりきれない」(1968年)、ベッツィ&クリスの「白い色は恋人の色」(1969年)、加藤和彦と北山修名義の「あの素晴しい愛をもう一度」(1971年)。この3曲だけでも十分天才の名にふさわしいと思います。ソロシングル「シンガプーラ」(1976年)も一度聴いただけで忘れられなくなる名曲でした。

そう、この “一度聴いただけで忘れられない” ということが、名曲と凡作を分ける重要なポイントです。これまでにない新規性と、すぐに馴染める親和性、たいてい相反してしまう二面を併せ持っていないと、そうはなりません。そういう曲をつくる力は、残念ながら努力や根性だけでは得られない。音楽の女神が選んだ、ほんとに少数の人たちだけに与えられるのです。加藤さんは間違いなくその中の一人でした。

だけど「うたかたのオペラ」は凡作?

なのに、「シンガプーラ」のあと、彼のソロ作品から、なぜか、そういう曲が聴こえてこなくなってしまいました。それ以降の数アルバムは、せいぜい一度聴いただけで納得(失望)し、そのうちまったくスルーするようになりました。

だけど、この『リ・リ・リリッスン・エイティーズ』を書いている以上、1980年にリリースされた6th アルバム『うたかたのオペラ』を無視するわけにはいかないなと思い、今になって、じっくり聴き直すことにしたのです。以前の私には解らなかったよさが、今なら解るかも知れない。…ところがやはり、いいと思えません。もう一度聴く。ダメだ。

そこで『うたかたのオペラ』だけじゃなくて、「シンガプーラ」の入っている『それから先のことは…』(1976年)からラストアルバムの『ボレロ・カリフォルニア』(1991年)まで、加藤和彦三昧をやってみました。それからまた『うたかたのオペラ』に戻って、…ようやくいくつかの曲が頭の中で再現されるようになりました。くどいですが、一度聴いただけでこうなるのが名曲の証なんだけど…。

このアルバムを挟んで、5thソロアルバム『パパ・ヘミングウェイ』(1979年)と7th『ベル・エキセントリック』(1981年)があり、ご存知のように “ヨーロッパ3部作” と呼ばれています。妻であった作詞家の安井かずみさんとともに、ヨーロッパ、特にパリ、そしてベルリンをテーマとしてつくりあげたコンセプトアルバムですが、その追求の仕方は半端じゃなかったようで、本や資料は日本では手に入らない洋書まで含めて数十冊は読み漁り、つくるまでのだいたい半年くらいはその話しかしなかった、というくらいの徹底ぶりだったようです。

アーティストとして、尊敬すべき制作姿勢だと思いますが、とは言え、音楽は聴いて感じるものがすべてです。歌詞も含めてそうだと思います。たとえば、ジャケットはカッコいいほうがいいに決まっていますが、いくらよくても音楽がダメならそのレコードはダメでしょう。いかに徹底的に研究を尽くしていようが、ベルリンの壁のそばのスタジオへ、細野晴臣、高橋幸宏、矢野顕子、大村憲司という日本屈指のミュージシャンたちを連れていって録音しようが、聴こえてくる音が心を震わせてくれないと意味がありません。

もちろん駄作とは言いません。何と言っても加藤さんですから。明るい曲もあるにも関わらず、全体としていかにもベルリンといった暗い響きに覆われたサウンドのトータル感は面白いと思いますし、演奏はさすがしっかりしていて、特に細野さんのベースはやっぱすごいなーなんて思います。

だけど、このメロディじゃやはり物足りません。メロディがよくないと、言っちゃ悪いけど加藤さんの歌唱力では戦えない。アレンジも、考え抜かれているのでしょうが、特にグッとくるものがない。それもフレーズ(メロディ)の問題だと思います。あの天才メロディメーカーが、いったいどうしちゃったんでしょうか?

逆境を知らなかったのが弱み?

実は加藤さん、“ヨーロッパ3部作” から、フォークル以来、長く在籍した東芝EMIを離れ、ワーナー・パイオニアに移籍しています。『エゴ 加藤和彦、加藤和彦を語る』(スペースシャワーブックス 2013年発行)という本によると、4thアルバム『ガーディニア』をつくった時、ミカ・バンド時代から担当だった東芝EMIの新田和長さんから、 “加藤君はこんなことやってないで、やっぱり「あの素晴しい愛をもう一度」みたいなのがいちばんいいんだ” と言われて、次の日に東芝をやめた… そうです。

実際はこういう言い方じゃなかったのでは? と思いますが、加藤さんには “新しいことなんかしなくていいから、売れるものをつくってよ” というふうに聞こえたのでしょう。新しいことに、常に日本でいちばん最初に挑んできた彼にとって、それはアーティストであることを全否定されるのに等しかったんだと思います。

そしたら、ワーナー・パイオニアの折田育造さんからラブコールがありました。“好きなことをやっていい” と。実績のある加藤さんだからあり得る話とは言え、日本でいちばんギャラが高いミュージシャンたちを連れて、海外のスタジオでレコーディングするという、この時代最もお金がかかる(以前『自腹で往復43万!ニューヨークでたまたま観たブロンディ最後のツアー』でも書きましたが、私が初めてニューヨークに行った1982年、航空チケット代がエコノミー往復で43万円だったのですよ!)制作方法で、(さほど売れなかった)アルバムを3作もつくらせてもらえた、破格の待遇でした。

新田さんの真意は、もちろん推測ですが、「あの素晴しい愛をもう一度」のような名曲を書いたあなたなんだから、もっと曲づくりに注力してほしい、ということだったんじゃないでしょうか? 何にせよ、既にビッグアーティストだった加藤さんに、批判的な意見を言うのは骨の折れることだったと思います。でも、そういう人は必要です。場合によってはもっと理不尽な要求であっても、それを乗り越えることによって、アーティストがひときわ大きく成長することがあるんです。アーティストの成功過程を調べてみると、けっこうそういうケースがあります。

だけど、加藤さんはその “イヤな” 意見から逃げた。するとすぐに暖かく受け入れてくれる環境があった。その環境で、やりたいことを思う存分やったのが “ヨーロッパ三部作” なのでしょう。

加藤さんと細野晴臣さんは同じ1947年生まれです。同世代の細野さんや大瀧詠一さん、ちょっと下の山下達郎さんらは、ずっとなかなか売れなくて、悩んで、苦労して、でもいずれも、1980年前後に成功の扉の鍵を開けることができました。加藤さんは彼らと対照的に、まず大成功で始まったんだけれど、1980年頃からどうも世間からは浮遊してしまった。そんな感じがします。

細野さんたちの成功は、“やっと時代が追いついた” という見方もできるでしょうが、逆境の時期を過ごしたことがバネになったとも言えるんじゃないでしょうか。加藤さんは逆境を経験したことがなく、また眼前の敵からはスルリと逃げることができたので、バネを手に入れることができなかった…。

イソップ寓話みたいになってきたな。そんな感じで、悪しからず。

▶ Information 映画「トノバン 音楽家 加藤和彦とその時代」 全国公開中

※2022年7月19日に掲載された記事をアップデート

カタリベ: ふくおかとも彦

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