【定年後に読みたい】「これぞよい小説」…作家・阿刀田高氏も絶賛する〈技巧の巧みさ〉と〈モチーフの深さ〉が際立つ“昭和の名著”

世の中には「傑作」と呼ばれる作品があります。本が好きな人であれば、生きているうちに、できるだけ多くの「傑作」を触れておきたいものです。定年後の知的活動を充実させるのに最適な書籍『定年後に読む不滅の名著200選』(文藝春秋・編)より、多数の文学賞の選考委員も務める、作家の阿刀田高氏が絶賛する「傑作」について、詳しく見ていきましょう。

作家・阿刀田高氏が、その巧みな技巧に「舌を巻いた」一冊とは?

「ひかりごけ」/武田泰淳(新潮文庫『ひかりごけ』所収)

知床半島は今でも秘境として人気を集めているが、五十年ほど前、私が訪ねたときは観光客の姿などほとんど見ることのない、文字通りの秘境であった。半島の中ほど、羅臼のマッカウス洞窟は、なにげない岩穴だが、その奥まった一画にヒカリゴケが密棲して神秘の光を映していた。見えたり消えたり、あえかに美しい。

旅から帰って、

「知床行ったぞ。ヒカリゴケ見たぞ」

呟くだけで仲間たちが耳を傾ける。ちょっとうれしい。そんな秘境を描いた作品があると聞けば読んでみたくなる。

武田泰淳の『ひかりごけ』は一読して、

──うん、うん、この通りだったなあ──

私が見聞した風土が鮮かに綴ってある。しかもここでは“人肉を食べた”という実話が主題となっていて、カニバリズムの文学としても、

「あれ、読んだか? すごいぞ」

これも仲間に誇りたくなる。加えて、死体を前にした男たちの会話がおもしろい。

八蔵 五助の葬式はやらなくても、いいだか。

船長 葬式はいつでもできる。それよか、おめえたちが、どう腹をきめるかが問題だ。

八蔵 食べちまう葬式ってえのは、あっかなあ。

船長 流しちまったら、しめえだぞ。流すまえに、みんなしてよく考えるだ。

八蔵 考えたら、どうしたって、話がそこへ行くだよ。食べることしか考えてねえのに、喰い物になるのは五助しかねえだからよ。うんだから、考えのもとになるもんを、なくすより仕方ねえだ。

船長 八蔵、おめえほんとに、あれを喰いたくはねえのか。

八蔵 ……おら、五助さ喰いたくはねえ。うんだが、あの肉はときどき喰いたくなるだ。

黒い笑いを誘うシーンも散っていて、ブラックユーモアの傑作であることも疑いない。『ひかりごけ』は私の読書の楽しみを充分に満たしてくれる作品として記憶に残った。

過日、久しぶりに読み返してみると……もちろんおもしろい。だが、じっくりと読み込み、

──中身が深いなあ──

あらためて厳かな感興に打たれた。モチーフの重さを感じた。技法の巧みさに舌を巻いた。

『ひかりごけ』が問いかける、モチーフの深さ

作品は“私”が羅臼を訪ね、地元の中学校長の案内でヒカリゴケを見に行く。この描写がさいはての風土と人気を描いて、つきづきしい。わけもなく引き込まれて読み進んでしまう。そのうちに“私”は校長から、かつて、厳寒の冬、この付近に漂着した船の船員たちが飢えに苦しみ、仲間を食べてしまった事実を聞かされる。その詳細は『羅臼村郷土史』に記されていて、この紹介が事件の特異性とあいまって、なかなかの読み物だ。

さらに、この作品より少し前に発表されて話題となった大岡昇平の『野火』の中の一節、すなわち戦場で同じく飢えに苦しんだ男の言葉「僕は殺したが、食べなかった」を引用し、『ひかりごけ』の中の“殺したわけではないが、食べてしまった”ケースとの比較に筆が延びていく。さらに戦争に代表される殺戮の非人間性をサラリと糾弾する。

ずいぶんと堅くむつかしくなりそうなテーマだが、ここで一転、作品は二幕のドラマと化し、喜劇の要素を混えながら寓意性に富んだ結末へと向かって行く。貫いているモチーフは人間の原罪だ。私たちは生まれながらにして罪を抱いているのではないのか。キリスト教に顕著な考え方だが、仏教などにも似たような考えが伏在しているだろう。

キリスト教では人間と他の動物とを区別し、獣肉はためらうことなく食用に供してよいが、カニバリズムなんてトンデモナイ。しかし仏教徒には、生きとし生けるものはみんな同じ命と考えるところがある。このあたり、彼我において“人を食う”ことの意味に少しちがいがあるのかもしれない……。

いや、いや、武田泰淳は、こうした理屈をかまびすしく開陳しているわけではない。フィクションの筆致に乗せて読み手がおのずと思案するように創っている。そこがうまい。そこがおみごと、と久しぶりに読んで思った。

話は変わるが、井上ひさしは深刻なテーマをドラマ化することにより笑いを混え、軽やかに訴える、そこにおいて卓越していた。ドラマにはこの力がある。小説とは少しちがう。井上ひさしと身近に接し、その作品を数あまた多知ったあとであればこそ、武田泰淳が『ひかりごけ』に突如ドラマを取り入れた理由がよくわかった。

そして、この『ひかりごけ』の構造が……ノンフィクションのような探訪記から始まりそれが郷土史を踏まえた小説となり、さらに二つのドラマと変わる全体構造が、どれほど創るに困難か、だが、どれほどうまく機能しているか、以前には気づかなかったことが、しみじみ理解できたと思う。作品が問いかけるモチーフの深さとともに、

──これぞよい小説──

楽しみながら人間の実存を考えさせられてしまった。知床の地は、もう一つ、この作品により知の神秘を備えることになったのではあるまいか。

文藝春秋・編

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