玉島歴史勉強会(2024年5月9日開催)~ 北前船が行き交った玉島の湊町

玉島歴史勉強会」が2024年5月9日(木)に玉島で開催されました。

玉島は北前船の寄港としてにぎわった町です。
昔懐かしいレトロな町並みがよく知られており、「ALWAYS 三丁目の夕日」「とんび」など映画のロケ地にもなっています。

玉島はかつて海で干拓により発展してきた町ですが、どのように町がつくられてきたのかもっと詳しく知りたいと思い参加しました。

「玉島歴史勉強会」とは

「玉島歴史勉強会」はNPO法人玉島観光ガイド協会が主催する、玉島の歴史や文化について学ぶ勉強会です。
玉島観光ガイドさんによる座学はもちろん、実際に歩いて散策をしたり、施設見学をしたりしながら説明を聞いて学びます。

今回の参加者は9名
羽黒神社そばの良寛会館から玉島の町を歩いて巡り、歴史や文化について学びました。

玉島発祥の地 羽黒神社

最初に良寛会館の目の前にある羽黒神社にお参り。
石段下の「羽黒神社」と彫られた石碑には、「玉島発祥の地・玉島一丁目一番地」とあります。羽黒神社のある阿弥陀山は玉島の干拓の起点なのですね。

パワースポットとしても人気のある羽黒神社は、干拓の安全と成功祈願のため建てられました。羽黒神社の境内に上がると玉島港や羽黒神社周辺の町並みが一望できます。

まさに玉島の中心です。

旧柚木家住宅 西爽亭

西爽亭(さいそうてい)は玉島のかつての庄屋「旧柚木家住宅」です。
備中松山藩主の御座所にもなっていました。

幕末、備中松山藩の藩士であった熊田恰(くまた あたか)が部下の命を救うため、この西爽亭の次の間で自刃しました。これにより玉島は備中岡山藩との戦火を免れ、熊田恰は「玉島の恩人」と呼ばれています

書院造の閑静なお屋敷の間に座り、ていねいにつくり込まれたお庭を眺めていると、幕末の時代にトリップしたような感覚になりました。

北前船、高瀬舟でにぎわった問屋街 新町

新町は羽黒神社から西に約400mもの潮止めのための堤防だったそうです。海側は倉庫群、北側は事務所・住宅地となっていました。

この堤防ができたことで、新町から北の開拓が進んだそうです。
今では想像できませんが、北は北海道から南は九州までの多くの船が行き交うにぎやかな港町だったようです。

玉島に初めてつくられた甕江(おうこう)銀行をはじめ、多くの銀行があったことにも驚きました。
物資の流通量が多く、いかに経済が発展していたかがわかります。

「玉島といえば」という商店が並ぶ仲買町

新町を抜けて昭和橋を渡り仲買町(なかがいちょう)へ。
昔ながらのレトロな雰囲気を楽しみながら歩きます。

仲買町は、みそ・しょうゆ、酒屋、畳屋、紙屋、石屋など地場産業の栄えた町です。玉島には多くの酒屋がありましたが、現在では菊池酒造が玉島で唯一の日本酒製造メーカーです

仲買町には、江戸時代末期の国学者であり歌人でもある近藤萬丈(こんどう ばんじょう)の生家もあります。
近藤万丈は土佐の旅行中に、玉島円通寺で修行時代をすごした良寛さんらしい人と出会ったことを書き残していることでも知られています。

円通寺から新潟に戻るまで良寛さんがどうされていたかはよくわかっていません。良寛さんの足取りを知る貴重な手がかりとなっています。

以前から気になっていたものがありました。
それは「夢の浮橋」。

溝のような上に架かっており、橋と言うには小さすぎます。しかも「夢」を連想させるようなものはこの辺りにはありません。
どういうことなのだろう、とずっと不思議に思っていました。

ガイドさんの説明によると、「夢の浮橋」から先は遊郭(ゆうかく)になっていたそうです。そして遊郭が途切れたところには「地獄橋」。

この橋を越えると夢から覚めて空しい「現実」に戻るということでしょうか。

おわりに

玉島は干拓により発展し、湊町として全国の物資が流通していた湊町です。
時代が変われば町の役割や産業も変わってきますが、海と川、水路は今でも玉島の町と密接な関係にあります。

当時の活気あるにぎやかなようすを思い浮かべながら、羽黒神社を中心に玉島の町並みを歩いてみると楽しいですね。

次回の「玉島歴史勉強会」は、2024年6月13日(木)に開催されます。

興味のあるかたは参加してみてはいかがでしょうか。詳しくはチラシの画像を確認してください。

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