疎開船「対馬丸」撃沈から80年 教え子を親元に返せず苦悩し続ける引率教諭だった母 生き残った自責の念を知った娘、足跡たどり一冊に

「過去の戦争と向き合うから、今の平和があると思えるようになった」と語る上野和子さん=6日、栃木市

 【栃木】疎開船「対馬丸」撃沈事件から生還した元引率教諭の故新崎美津子さん(享年90)の長女、上野和子さん(77)=栃木県=が母への思いをつづった「蕾(つぼみ)のままに散りゆけり」を出版した。教え子を親元に帰せず、生涯苦悩し続けた母。遺品の手記から自責の念を知った上野さんが母の足跡をたどり、沖縄戦を学んで書き上げた。「『戦争は絶対にいけない』と繰り返す母の言葉の意味がようやく理解できた。この本が戦争を知り、平和を守り続けるきっかけになってほしい」と話す。(東京報道部・照屋剛志)

 日本は1944年7月、沖縄戦に備えて子どもとお年寄りの本土や台湾への疎開を決定。日本軍の食糧を確保するのが狙いだった。天妃国民学校の教師だった新崎さんも国策に従い、家庭訪問して疎開を進めた。

 引率教諭として乗船した対馬丸は8月22日、米潜水艦の魚雷攻撃を受けて沈没。学童784人を含む1484人が亡くなった。

 新崎さんは、自分だけ生き残ってしまった自責の念から沖縄に戻れず、戦後は栃木で過ごした。家族に対馬丸事件を語ることもなかったという。晩年、引き受けるようになった講演会で上野さんは母の体験を初めて知り、衝撃を受けた。

 もっと知りたいと思っていたが母は2011年、90歳で亡くなった。遺品を整理していたら、短歌をしたためたノートを見つけた。

 「子供等は/つぼみのままに/散りゆけり/嗚呼満開の/桜に思う」

 対馬丸事件を題材にした短歌が数多くあった。「亡くなった子どもたちを忘れないでと、母が訴えている」と受け取った。

 乗船から沈没、漂流まで、対馬丸事件の一連の出来事が走り書きされたメモもあった。苦しみながら、それでも真実を残そうと葛藤しながら書き上げたかのようだった。

 上野さんは決意する。「つらい思いを抱えながら、必死に生きた母の人生には大きな意味があった。埋もれさせてはいけない」

 新崎さんの死去から1カ月後、大阪の出版社が主催する戦争体験についての公募にエッセーを送ると採用され、文芸誌に掲載された。「世間に知ってもらうことができた」と思った。

 それからは夢中だった。書籍を読み、沖縄を訪れ、沖縄戦と対馬丸について取材しては同人誌にエッセーを投稿。「学ぶほどに知るべきことができて、さらに取材を続けた」と語る。

 気付けばエッセーは16編になっていた。対馬丸事件から80年となる今年、これらをまとめて書籍化した。

 上野さんは「最初は母の足跡をたどることに必死だった。今では、過去の戦争にきちんと向き合うことが今の平和につながると思えるようになった。こんな時代だからこそ、多くの人に手に取ってほしい」と呼びかけた。

■ジュンク堂那覇でトークイベント 6月9日午後3時から

 「蕾のままに散りゆけり」(悠人書院)は1800円(税別)。9日午後3時からジュンク堂書店那覇店で、上野さんのトークイベントがある。参加無料。

新崎美津子さん
対馬丸事件の記憶をつづった故新崎美津子さんの手記

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