水野晴郎監督「シベリア超特急」5分の動画を観ることすらキツいアナタに贈る90分の映画  本日6月10日は、映画評論家 水野晴郎先生の命日です

映画評論家 水野晴郎初監督作品「シベリア超特急」

長い人生、常に濃密度マックスで充実度フルスロットルの時間だけを過ごせるわけではない。むしろ、コスパやタイパ以外にも大切なことがある。たとえば、『シベリア超特急』のような映画を楽しむ時間もその1つだ。この映画は、5分の動画がキツいと感じる世代にこそ観てほしい90分の作品である。

『シベリア超特急』は、70〜90年代に日本テレビ系の映画番組『水曜ロードショー』&『金曜ロードショー』の解説者を務めた映画評論家・水野晴郎(リスペクトを込めて以下:水野先生)が初監督した作品だ。

『シベリア超特急』には前段があった。日本屈指のメジャー映画評論家だった水野先生は、1992年に『落陽』という映画に出演し、実在した旧日本陸軍大将・山下奉文を演じた。水野先生の容姿が山下に似ているという理由からの起用だった。以後、水野先生は山下の人物像に共感し、自身と重ね合わせるようになる。

そして “1941年にヨーロッパ視察に出向いた山下がシベリア鉄道を利用した” という史実をヒントにした映画を構想する。それが『シベリア超特急』だ。ストーリーは、山下がシベリア鉄道内で起こった連続殺人事件の謎を解くというものである。水野先生はこの映画で、俳優、監督、原作、脚本、製作と1人5役を務めた。

映画を知り尽くし、映画の楽しさを伝え続けた著名評論家の監督デビュー作品が公開されたのは1996年2月である。上映が始まると、オープニングにこのようなクレジットが表示された。 「この映画は終わりのクレジットが出たあと ある事が二度起こりますので、決してお友達に話さないでください。」 果たして、いかなるサプライズが待っているのか? しかも2つ? ネタをバラさないように留意しつつ、『シベリア超特急』という映画の特異性について考察したい。

ミニマルなセットで撮影を実現!

映画の舞台はシベリア鉄道の個室寝台車両である。ほぼ、そこしか出てこない。一般的に、『新幹線大爆破』(1975年)、『暴走機関車』(1985年)、『オリエント急行殺人事件』(2017年)、『ブレット・トレイン』(2022年)など鉄道を描いた映画は、列車が線路の上をダイナミックに走るシーンが大きな見せ場となる。しかし、『シベリア超特急』にはそれがない。

何しろ、寝台車1両分のセットを組んだだけなので、走りようがないのである。厳密にいえば、走る列車のシーンは少しだけインサートされるが、どう見ても登場人物たちが乗っている列車とは別物の映像だ。登場人物は寝台車両利用客9名と車掌だけ。他の車両や乗客の存在はまったく感じられない。それを “密室劇” とポジティブにアピールした水野先生のミニマルな意識の高さは、時代を先取りしていたともいえる。

また、走る鉄道車両内のシーンを撮影する場合、通常はカメラを微妙に揺らすものだが、なぜか水野先生はやっていない。だから、列車が止まって見える。それさえ「何か狙いがあるのではないか?」と思えてしまう。

ネームバリューにこだわらないキャスティング

『シベリア超特急』のトップクレジットはかたせ梨乃である。80年代に『極道の妻たち』シリーズに欠かせない存在となり、『男はつらいよ 拝啓車寅次郎様』(1994年)ではマドンナを務めたかたせは、堂々たる映画の看板だった。しかし、かたせ以外はまったくネームバリューにこだわらないキャスティングがなされている。かたせの相手役である外交官役を演じたのは菊池隆則という俳優だ。その後、樋口隆則の芸名で多くの作品に出演するが、当時は無名の存在だった。

その他、ドイツ人、オランダ人など、さまざまなルーツを持つ乗客が複数登場するが、欧米の有名俳優を招いた訳ではない。これらを演じたのは、ネットで検索しても他の出演作が確認できない人たちがほとんどなのである。エンドクレジットには、日本で主に外国人タレントのマネジメントを行う芸能プロ『稲川素子事務所』の名前が表示される。

さらに特筆すべきは、水野先生が極めて重要な役を西田和昭、占野しげるという自らの弟子格のタレントに演じさせている点である。山下が従える日本軍大尉を演じた西田は “ボンちゃん” の愛称で知られる元お笑い芸人で、映画評論家としても水野先生の片腕的な存在だった。車掌を演じた占野は『週刊TVプロレス』(テレビ東京)というプロレス情報番組に出ていた実績がある。クレジットの順番も含め、この2人がまるで大物俳優のような待遇なのだ。

これを “最もカネのかからないところで済ませた” と考えることもできるだろう。しかし、“水野ワールドを誰よりも知る二人を起用することで、自らの描きたかったものに近づけた” と解釈することもできる。“世界のキタノ” 北野武が、監督作品でたけし軍団のメンバーを起用することも珍しくないのである。

水野先生の演技がクセになる

『シベリア超特急』の特異性を際立てているのが、山下大将を演じる水野先生のまるで紙に書いてある文字を読んでいるような芝居だ。

「ボルシチも結構美味かったぞ。お陰で体も温まった」

「錯覚かもしれんぞ。人間の第一印象というのは必ずしも正しいとは限らん」

「バカ、起きとる。ちゃんと報告せい」

「殺したのは毒薬に違いない。短刀とも思えるが、相手は軍人だ。そう簡単に殺せるはずはない」

「戦争はこんな悲劇まで起こしてしまう。戦争は絶対にやめなければならん」

こうしたセリフを水野先生が発することで、すべてを食ってしまうのだ。ただし、全体的に喋るシーンは少ない。長いセリフもない。結果的に観る者はやがて、水野先生の芝居への渇望感を高めるようになる。棒読みの芝居をもっと観たいと願ってしまう。これがすべて計算されたものだとしたら、水野晴郎は凄い監督である。

水野先生の映画愛が凄い

『シベリア超特急』には水野先生の映画愛が凝縮されている。タイトルはヒッチコックの『バルカン超特急』を意識したものである。そして、全編で東西名作映画のオマージュが連続する。映画のコアなファンなら “ここはあの作品だ” と発見する楽しさがある。また、映画の撮影技法もあれこれ試されており、そこにも水野先生の意欲的な姿勢が感じられる。

また、世界史にも精通していた水野先生は、作品の舞台である太平洋戦争前夜のヨーロッパやアジアのディテールも細かく脚本に盛り込んでいる。しかも、一両の列車にそれをすべて盛り込んでいるので、特盛り感がハンパない。一度観ただけでは理解が難しい。

もうひとつ、水野先生の山下愛も強烈である。自らが演じる山下奉文を、平和を愛する有能な人格者として描いただけではない。さらに、アガサ・クリスティの推理小説に登場する “名探偵” エルキュール・ポワロのイメージも重ね合わせ、探偵としてのスキルも有した頭脳明晰な人物に設定したのだ。このように、映画愛、歴史愛、山下愛の3つが、『シベリア超特急』という映画の原動力なのである。

細かいことを気にしないリアリティを超越した脚本

水野先生は、映画は娯楽であることを重視し、細かいことに執着しない、リアリティを超越した脚本を書いた。映画で描かれる時代のシベリア鉄道は旧ソ連政府の管理下にあった。しかし、占野しげるが演じる車掌(蒙古系ソ連人という設定)は、すべての客と英語で話している。相手がソ連軍の軍人であっても英語対応である。

寝台車の乗客たちは、都合よく互いの名前、国籍や職業などプロフィールを頭に入れている。車内で連続殺人が起きてもシベリア鉄道の関係者がそれを知ることなく、列車はそのまま走り続ける。そして、なぜかアウェイの立場である日本軍のメンバーが現場を仕切り、犯人を特定しようとする。他国の人たちもそれに従う。

このようなおかしな点が気になり始めると、水野先生の思う壺である。ストーリーを追うよりも、殺人事件のトリックを解くよりも、おかしな点を探すことに意識が向いてしまう。90分はあっという間だ。

いやあ、映画って本当にいいもんですね

映画のラスト、ほとんど座っていただけの山下大将が、最初からすべてを知っていたかのように謎を解く。残念ながらトリックは “なるほど、そういうことだったのか!” と膝を打つようなものではない。どちらかというと “なんだ、そんなことか” と思うようなものだ。 だが、2つのどんでん返しが予告されている以上、ここで “どうせ、大したことないだろ” と考えるより “きっと、ここまでは壮大な前フリであり、最後に驚かせてくれるのだろう" と期待した方が楽しい。

もちろん、ここで “ダブルどんでん返し” の内容について具体的には書かない。しかし、水野先生が用意したのは凡人では思い浮かばない、いや、理解しがたいものだったことだけは確認しておきたい。これこそ、『シベリア超特急』を『シベリア超特急』たらしめている要素である。最後に頭に浮かぶのは「皆さん、驚いたでしょう。いやあ、映画って本当にいいもんですね」とひとり得意顔の水野先生である。

上記のような事情から『シベリア超特急』は、90年代にカルト映画、ズンドコB級映画のような扱いを受けた。その結果、サブカルチャー好きの層を中心に人気を獲得。そして、1作目より豪華なキャストとセットでシリーズ化され、舞台化もされた。ただ、豪華になることはオリジナルの魅力を半減させることにつながった。

『シベリア超特急』の真髄はやはり、ベニヤで作られた列車セットのなかで、ほとんど馴染みのない俳優が演じているこの1作目にあるといえる。そこには他では味わえない映画体験が待っている。人生にこんな90分があってもいい。この文章を読んで少しでも気になった方は、今こそ、シベリアを走る不条理エクスプレスに飛び乗ろう! と言いたいところだが、2024年5月現在、『シベリア超特急』は何故かどの動画配信サービスでも提供されていない。

カタリベ: ミゾロギ・ダイスケ

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