さらば、世界王者が愛した味 長谷川穂積さんのタイ料理店 世界3階級制覇の陰にシェフとの心の交流 神戸

英語と日本語を交えてやりとりする長谷川穂積さん(左)とソムキット・シェントンさん(右)、店長で元プロボクサーの田中博人さん=神戸市中央区中山手通1、クルアタイ(撮影・中西幸大)

 神戸・北野のハンター坂で10年間愛されたタイ料理店「クルアタイ」(神戸市中央区)が、17日に閉店する。オーナーは、プロボクシングで兵庫のジムから初の世界王者となった長谷川穂積さん(43)=兵庫県西脇市出身。世界3階級制覇の陰には、宿敵の国から来たシェフとの心の交流があった。(船曳陽子)

 店名の「クルアタイ」は、タイの台所を意味する。長谷川さんが「ほとんどのお客さんが僕の店と知らない」と言うように、2014年の開店以来、シェフのソムキット・シェントンさん(53)が腕をふるう料理の味で人気を得てきた。

 20年前。東洋太平洋王者だった長谷川さんは、練習相手のタイ選手をねぎらうため、当時三宮にあったタイ料理店を訪れた。そこで働いていたのが、ソムキットさんだった。店に通ううちに、仕事への高い誇りや厨房(ちゅうぼう)をピカピカに磨き上げる料理人魂を「本物のプロ」と尊敬するようになった。

 05年4月、東京・日本武道館。長谷川さんは世界ボクシング評議会(WBC)バンタム級王者、ウィラポン・ナコンルアンプロモーションさんに判定勝ちし、24歳で世界王者になった。辰吉丈一郎さん、西岡利晃さんという名王者2人が計6度挑戦してはねのけられるなど、9年間不敗だったタイの英雄の牙城を崩した。

 06年3月には2度目の防衛戦としてワールド記念ホール(神戸市中央区)へ凱旋(がいせん)し、ウィラポンさんと再戦。前日計量後は、ソムキットさんの料理で腹を満たした。

 同時に、試合後にその店でウィラポンさんの祝勝会が予定されていることも知った。相手の下馬評は再戦でもなお高かったが、重圧をものともせずに、ダウンを奪って9回TKOで返り討ち。リングで「本当の王者になれた」と語った長谷川さんは、敗者の帰国を待って、ソムキットさんの味で勝利を祝った。

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 盟友とも言えるソムキットさんが勤めていた店が閉店し、長谷川さん自身が「クルアタイ」を開いたのは14年。当時は世界戦で2連敗するなど雌伏の時だった。

 周囲からは「現役時代に飲食店を始めたら大成しない」と反対されたという。だが、「商売として考えていなかった。ソムキットさんのご飯を食べたいし、彼が好きだった。できることなら力になりたかった」と振り返る。

 2年後の16年、長谷川さんは世界3階級制覇を達成し、王者のまま引退した。「ソムキットさんの料理は、ボクシング人生の後半を支えてくれた」と感謝する。「最初に食べたガパオ(ひき肉などが載ったご飯)がとてもおいしかった。今も一番好きな料理」

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 子どもの独立などもあってソムキットさんが帰国することになり、長谷川さんも10年を節目に店を閉める。東京や名古屋の試合にも足を運んだシェフは、元王者との日々を「ベリーベリーハッピーだった」と笑顔で語る。

 引退後のウィラポンさんも、母国でタイ料理店を経営しているという。数年前に訪れた時には「うちの方が断然うまかった」と長谷川さん。「彼は料理のチャンピオンですからね」。その賛辞に、厨房で真っ白なコック服姿のソムキットさんが、照れ笑いを浮かべていた。

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