東京再発見 第22章 埋め立てられた未来都市~荒川区南千住・汐入地区~

災害に強い街づくりを目指し1987年に計画が着手されてきた南千住・汐入地区。昔は小さな住宅が数多く建ち並び、隅田川の入江が縦横に流れていた。また、当時、隅田川に架かる橋は、千住大橋の下流域には白鬚橋まで橋がなかった。そのため、対岸までは渡し舟で行き来していた。

国土地理院WEBから転載
(左:2023年、水神大橋と千住汐入大橋ができている 右:1960年代、汐入運河が隅田川駅に入り込んでいる)

しかし、再開発が進むと、対岸の墨田区の防災団地と対を成すように、数多くの防災団地やタワーマンションが増えて、まるで未来都市のような景観となった。

湾曲する隅田川に囲まれた場所

瑞光橋より汐入運河を望む(前方の階段の左右に汐入水門の跡)

南千住駅東側に位置する南千住四、八丁目、三丁目の東側がそのエリア。旧国鉄清算事業団処分用地として隅田川貨物駅北部・東部が売却整備。そして、旧汐入地区と合わせて大幅な区画整理と共に都市型道路が敷設された。

この再開発エリアの魅力は、計画的に整備された美しい街並み。並木の植えられた道路は歩道と車道に分けられ、広々としている。また、学校や消防署、公園が計画的に配されている。特に防災拠点としての位置づけが高い。

最近、消滅危機自治体なるものが発表された。そして、東京23区はほとんどがブラックホール自治体とされた。これは、人口は増えているが、他地域からの流入人口が多いという自治体を指す。荒川区もその一つである。

子どもが多い新しい街

確かに、この地域は、子どものいる若年層家族が多く、街を歩くと子どもの姿を良く見かける。その一つの理由として、荒川区は、児童や生徒に対する医療費等の免除という施策が功を奏していることにある。そのため、東京23区の中でも若年層の流入人口が高いと言われている。子育て世代に対する支援を早い時期から推進したことによって、この汐入地区には若い家族が多い。

高層マンション群と桜の花

その中心が、都営汐入公園とも言われている。

汐入公園は、2006年に開園。南千住八丁目付近に位置する12.9haの面積を有する。隅田川に隣接し、四季折々に花々が咲き誇り、朝な夕なに川沿いをランニングする地域住民が少なくない。子ども用の巨大遊具も多く、安心して遊ばせることができる。また、災害時には、近隣の住民を含め約12万人の避難広場として広域避難場所の指定を受けている。

南千住・汐入地区とは・・・

さて、その歴史を紐解くと、汐入村は上杉謙信の家臣であった高田氏に始まる。戦に敗れ、この地に落ち延びてきて開拓して始まった村だというのだ。そして、江戸時代は、汐入大根などの農業や胡粉(貝殻を砕いた白い顔料で日本画や日本人形に使用された)の産地である小さな村だった。隅田川と隅田川貨物駅に囲まれ、戦災の被害も少なかった。そのため、昔ながらの町の様相を残していた。

汐入運河(瑞光橋を望む、手前の黒いコンクリートが汐入水門の跡)

また、明治に入ってからは大日本紡績(ニチボウ、現・ユニチカ)と鐘淵紡績(カネボウ)の二大工場や日本石油油槽所ができ、工業の町として多くの人が働くこととなる。しかし、1970年代にはこれらの工場も移転。そのため、東京都による再開発計画が決定した。

古社が歴史を刻む

そして、域内には、胡粉作りにも大きな影響があった胡録神社と鎮守様である石濱神社が鎮座している。

胡録神社は、高田氏とも深い関係があり、胡粉を作る際に利用された石臼も奉納されている。一方、石濱神社は、奈良時代724年に勅願され鎮座されたという歴史的な古社である。平安末期には、地域の土豪である千葉氏や宇都宮氏からも篤く信仰され、源頼朝とも関係が深かった。

また、この地に土着し、名主となった高田氏の邸宅は、再開発始まるまで100年以上を誇る木造住宅だった。その造りは、毎年隅田川が氾濫するので中二階に逃れられるように船が吊り下げられる構造になっていた。1994年に東京都が高田氏から買い取ったが、残念ながら、解体されてしまった。しかし、使われていた木材は、今も保存されている。将来、汐入の歴史を振り返るための文化財として、再活用できるように備えてあるという。

供用開始時には、歩行者専用橋だった水神大橋## 河川や運河を活用する機運が高まった

2021年の東京オリンピックを前後して、東京臨海部の舟運を見直す機運が高まっている。その理由として、舟運は鉄道輸送や道路輸送とは違った利便性があるからだ。

船舶の運航ルールに従えば、水上運航時にまず渋滞することはない。オリンピック開催時には、鉄道の混雑や道路の渋滞が懸念されていた。その意味からも、物資輸送だけではなく、人の移動をスムーズに行なうことができる舟運に焦点が当たったのだ。

また、目線が水辺に近いことで、普段とは違った景色を見ることができる。それ故、舟運がただ単なる輸送手段だけでなく、新たな観光コンテンツとしても見直しされるようになったのだ。

(舟運観光については、また、別項を建てたいと考えているので、お待ちいただきたい)

水都・江戸の始まり

そもそも、徳川家康の江戸入府以降、利根川の東遷などによって、江戸の町を河川の氾濫から守り、安全な治水を進めることが急務であった。また、隅田川を江戸湾に流し、新しい土地を埋立造成することも積極的に進められた。これは、一挙に膨らむ江戸への人口流入への対応が必要であったからと言われている。そして、隅田川東側には、新たな町ができあがっていったのだ。その町割りには、計画的に運河が巡らされて、水路が陸上の道を補完していたのだ。

明治期になると近代化のために、鉄道網が発展していった。そのことによって、舟運は衰退していった。しかし、地域によっては、舟運との共存も引き続き、進められていたのである。昭和以降も、東京湾は埋め立てを続け、臨海部は舟運の方が利便性が高くなっているのだ。

隅田川貨物駅の意義

JR貨物隅田川駅(汐入運河の跡)、橋場橋交差点という地名が運河の名残

旧国鉄(現在のJR貨物)隅田川駅は、東北や常磐、上信越地方からの物資を集約する貨物駅である。この汐入地区の大きな面積を有する場所に、櫛型の線路が広がっている。かつては、この場内に隅田川からの運河がそのまま、入り込んでいた。再開発とともに、汐入運河は埋め立てられてしまった。

しかし、その名残は、今でも見ることができる。隅田川の袂の瑞光橋付近に入江が作られている。かつての汐入運河の入り口である。そして、その先に高層マンションの間を道路が延びている。その道路は、そのまま隅田川駅までつながっているのだ。また、駅入口の交差点は、「橋場橋」と名乗っていることからも、ここが運河であったことの証でもある。

橋場橋(汐入運河の跡)、前方の道路が運河の跡、汐入水門へと向かっている

鉄路で集められた物資は、この場所で舟に積み替えられる。そして、隅田川を使って、東京の中心部に運ばれていくのだ。このような仕掛けは、隅田川駅だけでなく、秋葉原や旧汐留駅でも同様のことが行なわれていたのである。

古き時代を反映する町が、今も残る

スカイツリーが見える新旧の通り
(左:汐入中央通り、無電柱・無電線化・右:清川二丁目に向かう通り、電柱・電線ともにそのまま)

このように、すべて新しく開発された明るい街・汐入と思われるかもしれない。高層ビル群が立ち並び、無電柱・無電線化も完了している。それ故、空が広く明るいイメージである。しかし、JR貨物・隅田川駅の南側は、未だに小さな家のままだ。家々は新しくなっているが、電柱・電線はそのまま。こちらは古き時代を彷彿させる町である。隣合わせと場所で、ここまで違うのか、とも思ってしまう。

石濱神社を望む土手の上からその姿を観察すると、遠くには高層ビルが見える。しかし、神社の裏手の通りには、背の低い建物が密集しているのだ。

石濱神社と今も残る古き町並み(神社の裏手が低層の家屋が立ち並ぶ、そして、遠方には、高層マンション群が・・・)

唯一、かつての運河、橋場橋通りから明治通りに抜ける道路開発が進んでいた。交通至便となると状況は変わってくるものとも思われる。

新旧の街と町が共存する姿、是非一度、訪れてご覧いただきたい。

(これまでの特集記事は、こちらから)

取材・撮影 中村 修(なかむら・おさむ) ㈱ツーリンクス 取締役事業本部長

隙間スカイツリー・汐入のマンション群の隙間に見える!(Night&Day)

汐入中央通り商店街の夜の景色

汐入公園に咲くオオカンザクラ(Night&Day)

© 株式会社ツーリンクス