ヒトと人工知能とが共進化した先にある“世界”を考える 「ニューロテック」の未来について

筆者は日頃、ニューロテックの未来についての構想や思想をNotionに書き連ねているのだが、せっかくなので、記録として残し、またどこかの誰かと思想を共有できたらなと思い、本記事を執筆することにした。

自分で言うのもなんだが、かなり独白的なきらいがある文章を書くことになる。その点はご容赦いただければ幸いだ。

「ニューロテックとはなんぞや」という方に向けた記事はまた追って執筆したいと思う。

■人類とAIによる共進化について

さて、本稿はニューロテックについての記事なのだが、まずは導入として「人間とAIの進化」について、筆者の考えを述べたいと思う。

勘の鋭い(?)方は「さては」と思われるだろうが、筆者は「ニューロテック」の延長上に、「人間とAIの進化」(正確には共進化)という目標を据えている。

この分野に興味のある方はAIについても比較的明るい方だと思うので、昨今のAIの進化の系譜は省略するが、「Claude 3 Opus」などの大規模言語モデル(LLM)をはじめとして、ビックデータと誤差逆伝播法ベースのDeep Learningを両輪に、AIは日々目覚ましい進化を遂げている。

LLM分野でも、最近「Sakana AI」から「進化的モデルマージ(※)」なる手法が発表された。ここで使われている「進化」という語はいわゆる「Evolutionary Algorithm(進化的アルゴリズム)」のことだが、LLMの開発現場における手法の進化として紹介しておこう。

(※進化的モデルマージ:複数の学習モデルを組み合わせる「マージ」と、生物の進化の過程を模倣、自動化させることで最適な解を導き出す「進化的アルゴリズム」を組み合わせた手法)

このように、多くの言語的活動や知的生産活動において、AIの能力はすでに平均的な人間をはるかに超えている。余談だが、図らずも最近のテクノロジーは人間をどんどん“考えさせなくする”方向に使われているので、広義での「人間のBOT化」なんてものも同時進行していると言えるだろう。

孫正義氏はあるインタビューの中で、「AIの進化に対して人間も進化しなければならない」と発言していたが、ではそもそも人間が「進化」するとはどういうことだろうか?

■人間の進化にはまだ可能性がある

進化学、特に進化生物学的に考えてみると、遺伝的に適応進化したと言える例は我々ホモ・サピエンスでもみられる(注釈:ここでの「適応」は厳密に使うのには注意を要するものだ)。

たとえば、水中に15分以上潜水できるインドネシアの民族、Bajau族の人々の能力は、多くの人が一度は聞いて驚嘆したことのある、進化の多様性がわかる良い実例だろう。こういったヒト種間の大きな違いは、多くの場合、身体的能力や認知能力(瞬間記憶能力など)に大別することができる。

遺伝的要因にほぼ依存するこうした多様な身体的特徴は、まさにヒト種と自然との相互作用から生まれた多様性ともいえる。また分子生物学的な進化の他に社会文化的な「模倣子(ミーム)」といったものも進化するものの一つだ。

では、現代の我々にとって欠かせないテクノロジー、人間と機械、ひいてはデジタル空間とのインタラクションについてはどうだろうか。デジタル空間を扱う技術の中で最も有名なのは「メタバース」を始めとするVR/AR技術だと思うが、近年しばしば耳目に触れる機会が多くなったものといえば、「BMI(Brain-Machine Interface)」はそのひとつだろう。

「侵襲/非侵襲BMI(※)」の技術的な限界、将来の展望についての私評は後日にするとして、ここではこの技術を今までの文脈から捉え直してみたい。

つまり、「脳の進化」という文脈だ。

(※侵襲/非侵襲BMI:脳に装置を埋め込むなど、物理的に脳へ手を加える種のBMIを「侵襲型BMI」、外部のセンサーなどを利用して脳自体に手を加えない種のものを「非侵襲型BMI」と分類する。以前は侵襲=BMI、非侵襲=BCIという区別が主流だったが、本稿では侵襲/非侵襲BMIの2つに区分する)

今までの進化の産物としての我々が持つ脳の仕組み、身体との関係などについては、池谷 裕二先生の「進化しすぎた脳」など分かりやすい良著が多くあるので、そちらも参照していただきたい。

筆者がこれらを読んでみてやはり思うのは、今の我々の脳には“更なる進化の余地”が多分に広がっているだろう、という事だ。

そもそも、思考・意識・言語・記憶といったものは、我々にとって本質的に重要であるのに、我々自身がよく分かっていない、脳の処理機構によるものだ(もちろん、身体は脳のボトルネックであると多くの学者が考えているように、身体性もまた重要な要素であることは否定しないが、ここでは一旦「脳」にフォーカスするため割愛する)。

これらの高次認知機能について、人類の理解はまだまだであると言わざるを得ない。神経生理学的・解剖学的な分析を用いたアプローチにしても、AIのような「知能を創る」ことで理解しようとする構成論的なアプローチにしても、程度の差こそあれ日々目覚ましい勢いで研究が産生されている。しかし、その最先端は最終到達地点からまだまだ乖離がある。

こうした背景から、BMI技術のような学際領域において、認知・運動(・言語)についての研究がほとんどであるという現状は、当然といえば当然だ。

細かいところだと、UCSF(カリフォルニア大学サンフランシスコ校)のEdward Chang 研究室は今ホットな研究を多く生み出しているスター研究室で、今後数年間のBMI研究の先駆けとなっていくだろう。

しかし、「本当の意味での」思考や言語、記憶の「Brain-Machine Interface」を議論するにあたっては、やはり脳における測定・刺激=デコード・エンコード技術の詳細を把握し、脳の仕組みそのものについての理解を深めなければならない。

実際、そうした研究はさまざまな手法でおこなわれている。たとえば、ヒト侵襲だと皮質表面の何千~何万電極での計測、海馬と皮質の同時計測、「Stentrode」やNano particle(ナノ粒子)による測定/刺激技術などが盛んに研究されており、非侵襲でもMEG(脳磁図記録)やUltrasound(超音波)などが急速に研究が進んでいる印象だ。

こういったデータ測定の部分は大きなキモとなるが、個人的には様々なモダリティで取得したデータの応用方面にとても関心がある。

数万のニューロン集団の電位の揺らぎである脳波をどのようにしてモデリングするのか、という方法論でさえ、深層学習から数理モデル、情報理論などさまざまな手法が存在し、BMI/BCIなどの神経工学分野においては更なる設計の創意工夫、AIシステムとの統合などが期待できる。こうした広がりによって、とても面白い技術が実現できるのではと考えている。

続いては「BMIの定義」について。現状のBMI研究がどのような価値観に基づいて行われているのか、それに対する筆者の考えも述べていく。

■BMI=脳と機械のインターフェース?

ここまで、AIの進歩に伴って人間が享受しうることの一つに、脳の「進化」という可能性があること。そしてその駆動要因の核となる技術が、BMIのような脳とデジタルを繋ぐ技術になるかもしれないという論を展開してきた。

ここで、BMIの定義に注目してみよう。欧米のニューロテック界隈では侵襲型/非侵襲型のそれらはほぼ別の分野かというほど棲み分けられた価値観が浸透している。しかし、いずれにしても「BMI」という語の直訳である“脳と機械のインターフェース”が、広く認められている定義である。

しかし、神経デコーディングの権威であるATR研究所・神谷先生は「BMI 研究はなぜ同じ失敗を繰り返すのか(日本BMI研究会, 2021.11.5)」において、この定義を新たな切り口で捉え直している。

■「脳内にコードされている世界モデルの外在化」としてのBMI

この資料において、特に面白いと思ったポイントは、原子・分子や自然の階層構造などにより構成される「物理的世界」に対し、ニューロンとスパイク/神経ネットワーク/局所・遠隔コネクションなど、脳は世界を独特な方法でコードしており、この「脳内世界モデル(内部モデルとも言われる)」を外在化・共有 、すなわちデコーディングやモデリングするテクノロジーとしてBMIを再定義しようと提唱されている箇所だ。

この神谷先生の素晴らしいスライドは、BMI研究に関わる全ての人にとって必読ともいえる資料であり、先生ならではの痛快な切り込み方は思わず口真似をしたくなるほど。

たしかに、臨床応用への需要(てんかんの治療の為に臨床脳波が発展したように)から生まれたBMIのような技術は、機能代替やProsthetic(義肢などの人工装具)的な側面が強調されており、基本的に「マイナスを0にする」という、まさしく臨床医学的な価値観で語られることが多い。

これによって、よくよく考えてみれば当たり前のことである、物理的世界と頭蓋に閉じ込められた脳をつなぐ身体性というチャンネルの他に、「身体性を介さない形で脳内表現をデコードするチャンネル」を開設する技術がBMIである、という事実を見えづらくしてしまっているのではないだろうか。

ちなみに、この脳内世界モデルについての有名な理論の一つに、AIの世界モデルとは別に、神経科学者・Jeff Hawkins氏が提唱している「1000の脳理論」があるが、こちらも個人的にかなり面白かったので、ぜひ参照いただきたい。

このような文脈でBMIを捉え直してみると、現在の「前できたこと・障がいをできるようにする・治療する」という方向性だけでなく、「ヒト史上今までできなかったことをできるようにする」という新たな可能性が開けてくるのではないだろうか。

これこそ、BMI技術の発展先として健常者も視野に入れている(とほぼ確実に思われる)イーロン・マスク氏の目指している方向性であると思う。

では、健常者への応用が可能となった未来を考察するにあたり、ニューロテクノロジーに思想的な意味づけを与えてみよう。

ニューロテックの思想 「そもそも健常者で広まるのか」
〈出典:https://www.youtube.com/watch?v=z7o39CzHgug〉

この問題については、「神経法学」や「神経倫理」などの学問があるように社会文化、法制度、現代倫理とも関わる複雑なオープンクエスチョンだ。また安全性など、技術的側面も大いに関わる。

筆者自身の見解としては、かなり楽観的な方だ。そもそも「広まること」をどう定義するかに依ると考えている。

たとえば非侵襲BMIだと、医療用脳波デバイスが全国の半数以上の病院で導入されている社会、またより安価な脳波デバイスでヘルスケア・エンタメ領域で現在の細々とした売上を立てている人達にとっては、街中とか車内で脳波デバイスを着けてる人を見かけても特段不思議ではない、みたいな社会にできればまず上々で、これは「広めた」ことになるだろう。

無論、そういう人達はヘッドフォン・イヤフォン型など脳波以外のモダリティも計測できるデバイスを開発していくと思うので、厳密には、用途に応じた“脳情報”の活用が浸透していくと思われる。

なので、ここではより難易度の高い「侵襲ニューロテック」や「侵襲BMI」が健常者にも広まるのかどうかについて議論したい。

これについてはやはり、安全性・コストの問題がある程度解決されないとむずかしいだろう。しかし、イーロン・マスク氏がNeuralinkの事例で示してくれたように、巨大資本の一点投下によって“アカデミアの果実”を存分に使いつつ、ラボでは解決できないこと(完全ワイヤレス化など)をヒト・カネの力で解決していくスタイルが当分は功を奏していくだろう。

そして、50年後・100年後を考えた時には、ヒトの社会的様態・在り方そのものも大いに変わっていくことは必定と言える。現に、脳以外の身体部位への埋め込みデバイス、人体のヒューマノイド化などの物質的な変容にくわえ、AI・ITの凄まじい社会への浸透によりヒトの生活とデジタル空間は融合しつつある。

この物質的・精神的変容の方向性は、幸いなことにニューロテックの思想と見事に相性が良い。

我々がスマホのアプリを愛しているように、BMI・Neuromodulation(※)を始めとするニューロテックで可能となる「アプリ的機能」が増えていくにしたがって、また現代人が生まれた瞬間から刷り込まれているバイアス・価値観が常に更新されていくにつれて、侵襲型のニューロテックに対する抵抗感は間違いなく薄らいでいくだろう(もちろん、これは割合についての話であり、全ての社会がそうなるとは限らないが)。

(※Neuromodulation:神経変調療法。電気や磁気などによって神経の働きを調節=モジュレーションする技術)

■「ヒト」のあり方を変容させた破壊的イノベーション「スマートフォン」

ここで、スマホという破壊的イノベーションの好例を振り返ってみよう。ほとんどのヒトはその小さな箱を我が子のように大切にしているが、これは人間知性のあり方についても“破壊的な変容”をもたらした、というのが筆者の考えだ。

スマホと、スマホを使っている人間というエージェントがいる系を考えてみよう。大体の場合は人間の手・視覚(聴覚)・注意がスマホに拘束されているはずだ。

インターネットと即座に繋がれるその人間が、裸でどこかの草むらに放り出された時の無力感を想像してみると、如何に現代の人びとがスマホ(を介したインターネット)という外部知能に依存しているかわかるだろう。現代人はインターネットによってすでに拡張された知能を持っていると言えるのだ。

スマホの登場以前・以後と比べてみると、ヒトの在り方は破壊的に変わっている事がわかる。

これと同じことが未来に起こりうるとしたら、それは一体我々の何を変容させるだろうか。一つはヒトの移動、つまり空間的自由度は大いに変わりそうだ(宇宙、海中、空、地上でも)。

そして、生身のヒトが経験する世界も大いに変わるだろう。この「経験」というのは、分解して考えれば感性・知覚・感情などの組み合わせである。ヒトが認知する世界がVR/AR空間、そして神谷先生の言う「ニューロバース」へと拡張されていく。その先の未来において、身体性を介さない形でヒトの脳とデジタル空間が直接的に繋がることが可能となった暁には、まさに“想像のつかない能力”が創発する可能性は多分にある。

■カギとなるのは「予測不可能性」

ここで、現在の(スマートフォンやPCを介した)間接的なデジタルとの接続と、ヒトの脳とデジタル空間が直接的に繋がったときの違いを考えてみる。そのひとつとして、スマホに拘束されている限り、インターネットという「計算可能な空間」の中でしか人間は振る舞うことができないことではないだろうか、という点(SNSのコンテンツ最適化機能などがわかりやすいだろう)。

このような予測可能な空間で、人間がなおも依存し、これに飽きないのは、インターネットから得られる情報量が膨大すぎて、認知の限界を超えているからだ。

また、もう一つの重要なポイントとして、この間接的なインターフェースは「言語」という記号によって駆動されている所が大きいということ。言語によって切り貼りされた空間で過ごす時間が多い我々(特にZ世代)は、言外の情緒といったものに対してより鈍感に、そしてその曖昧さに耐えられなくなってきた気がしている。

しかし、ニューロテックが描く世界観としては、たとえば、基底核のヘブ学習のように脳とAIとの強化的な学習により人間のBMIコントロール性能が想像以上に向上することや、文献に散りばめられている脳の可塑性の威力、記号言語に縛られないモダリティでのコミュニケーション・表現の可能性(たとえばイメージのデコード研究)などからわかるように、この総じた脳の「予測不可能性」が大きな鍵となっている。

全脳シミュレーション、デジタルツインや数理神経科学分野はまさにここに挑戦している業界であり、こうした分野の進歩がニューロテックの進歩に繋がることは明白だ。

こうしたニューロテックによって可能となるかもしれない「認知の拡張」は、ある意味では通常何世代、何十~百年という時間スケールで進行する「進化」を、ヒトの個体レベルで一世代のうちに起こすことができるのではないか、という想像も引き起こしてくれる。

以上が、ニューロテックの現状とその先の未来に関する、筆者の私見である。後半はやや現実の技術的限界との乖離があり、思想的な内容になっているが、総じて筆者が思い描くニューロテックの思想に少しでも共感(あるいは批判でも)、興味を持っていただけたら幸いだ。

(文=水口成寛、画像クレジット:Pixabay/Adobe Firefly)

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