イスラエル軍、人質救出で混雑した通りを砲撃 作戦はどう展開したのか

イスラエルがパレスチナ自治区ガザ地区中部から人質4人を救出して2日がたった今、この救出作戦がどう展開したのか、人質たちの8カ月にわたる拘束生活がどのようなものだったか、明らかになってきた。

イスラム組織ハマスが運営するガザ地区の保健省は、この作戦の攻撃により、少なくともパレスチナ人274人が殺され、700人近くが負傷したと述べている。

イスラエルの特殊部隊は、女性のノア・アルガマニさん(26)を奇襲作戦で救出した。一方、残る男性3人を救出した部隊は作戦中に攻撃を受けたため、イスラエル軍は援護として近くに通りに大規模な空爆を実施。このため、多くのパレスチナ人が殺された。

「夏の種」と名付けられたこの作戦は、軍が入手した情報をもとに数週間かけて精密に計画された。イスラエル戦時内閣は6日夜、作戦決行にゴーサインを出した。

現地時間8日午前10時ごろ、イスラエル軍特殊部隊の2個分隊が白昼堂々、ガザ地区に入った。パレスチナ人に扮装した兵士もいた。少なくともトラック1台と複数の民間車両に分乗していたと思われている。

住民が大勢集まるヌセイラト難民キャンプの通りは、近くの市場で買い物をする人々でにぎわっていた。

攻撃を目撃したイサアム・ジャミール・アロウキさんはBBCに対し、イスラエル兵が家具を満載したトラックでやってきたと話した。

イスラエル兵のうち2人は私服で、残りの約10人は軍服にマスクを着けていたという。

「突然、トラックから特殊部隊が出てきて銃を撃ち始めた」と、アロウキさんは話した。

病院から取材に応じたアロウキさんは、自分も胸と腹を3カ所撃たれたという。

マットレスを載せた2台目のトラックが到着し、そこから二つ目の分隊が現れ、はしごを使い、ひとつの住宅棟に入ったようだという情報もある。

イスラエル国防軍(IDF)は、アルガマニさんの救出はハマスの意表を突いた奇襲作戦で円滑に行われ、護衛をすぐに殺害したと発表した。

イスラエルの民放「チャンネル12」は、アルガマニさんの家族を取材。アルガマニさんは作戦の当日朝、皿を洗うように言われたという。

その後、アルガマニさんの前に突然、マスク姿のイスラエル兵が現れ、「ノア、IDFだ」と言われたと、チャンネル12は報じている。

「あなたを肩に担いでも良いか」と兵士に尋ねられて初めて、アルガマニさんはどういう事態なのか悟ったという。

アルガマニさんは車で移動した後、ガザ地区をヘリコプターで離れた。

こうして、アルガマニさんの246日におよぶ人質生活が終わった。

2軒目突入後に反撃され

IDFは、アルガマニさん救出作戦と同時に、シュロミ・ジヴさん(40)とアンドレイ・コズロフさん(27)、アルモグ・メイルさん(20)を2軒目の住宅から救出しようとした。しかしこの時点ではすでにハマス側も、何が起きているかを把握したため、奇襲は成立せず、困難な作戦になったと説明している。

この3人を拘束していたとIDFが主張する家族については、情報が次第に明らかになってきた。

人権団体「ヨーロッパ・地中海人権モニター」のラミー・アブドゥ代表によると、イスラエルの特殊部隊ははしごを使って、アフメド・アル・ジャマル医師の家族宅に侵入したことが、早い段階の証拠で分かっている。

ジャマル医師の息子アブドゥラ・アル・ジャマル氏(36)は、かつてフリーランスのジャーナリストで、ハマスの広報担当だったこともある。

アブドゥ代表によると、特殊部隊はジャマル医師とアブドゥラ氏のほか、家族の何人かを殺害した。

IDFのダニエル・ハガリ報道官は、ビデオリンクでこの作戦の展開を見守っていた。ハガリ報道官によると、人質には「ダイヤモンド」というコードネームが付けられていた。

ハガリ報道官は、「ダイヤモンドが手に入った」、つまり人質3人が解放されたという報告に安心したと語った。

しかしその後、男性3人をガザ地区から脱出させようという段階で、この作戦は窮地に陥る。

IDFは今のところ、作戦に参加した部隊がパレスチナの戦闘員に激しく銃撃されたと説明している。

現場離脱に使っていた車両の少なくとも1台が、故障したとも報じられている。

イスラエル軍は援軍を送ることを決定し、空と海、そして地上から、激しく攻撃した。

携帯電話で撮影された現場の映像には、人々がミサイルから逃げようと転がったり、銃声が鳴り響いたりする様子が映っている。

また、通りに遺体が転がっている映像もある。

多くのパレスチナ人が殺されたのは、この時だったとみられている。

「まるで最後の審判」

モハメド・マフムード・ハメドさんはBBCに、「たくさんの人が通りに出て、怖がって、逃げていた。まるで最後の審判の日のようだった。どこへ行けばいいか誰にも分からなかった」と語った。

「大勢が殺された。あまりに大勢で、近寄ることもできなかった。助けることも、遺体を回収することもできなかった。特に、負傷者を助けられなかった。銃撃も爆撃もあまりに激しくて、恐怖から誰も助けに行けなかった」

イスラエル軍は、戦闘機は「作戦成功のために数十カ所の軍事目標を攻撃した」としている。

ガザ地区中部デイル・アル・バラフのアル・アクサ病院と、ヌセイラト難民キャンプ内のアル・アワダ病院は、すでに極限状態にあったが、そこに血まみれの被害者が次々に運び込まれた。被害者には子供も多く、廊下は死傷者でいっぱいになった。

モハメド・アル・アサルさんは、アル・アワダ病院で、頭に包帯を巻いた幼い娘のベッドの横に座っていた。

「娘のうち2人は殺され、残りもけがをした」と、アル・アサルさんは話した。

「妻と娘のラガド、リーム、ミンナ、ジャンナ、全員がけがをして、他の2人は殉教した。2人の魂が安らかに眠りますように」

国連パレスチナ難民救済事業機関(UNRWA)のサム・ローズ計画主任は、ヌセイラト難民キャンプにいた多くの職員が、この攻撃に巻き込まれたと語った。

「地上部隊が周辺で激しく交戦する中、多くの職員がヘリコプターや戦車、砲弾から逃れるため、文字通り何時間も階段の下に隠れていた」

人質のいる建物にミサイルと

また、人質4人の状態についても、詳細な情報が入ってきている。

IDFは、4人は牢屋ではなく、部屋に閉じ込められていたと説明した。

チャンネル12は、アルガマニさんはこの8カ月の間、いくつかのアパートを転々としたが、トンネル内に拘束されたことはないと家族に話したと報じた。

また、滞在中の建物にミサイルが撃ち込まれた時などを含め、何度も死ぬと思ったと、アルガマニさんは話した。

アルガマニさんによると、食べ物は与えられていたものの十分ではなかった。外に新鮮な空気を吸いに行くこともほとんど許されず、その際もパレスチナ人女性に変装しなくてはならなかった。シャワーを浴びることを許されたのは、数回だけだったという。

4人の人質解放にイスラエルの人たちは安堵し、軍事作戦をたたえている。

しかし、あまりに多くの死傷者が出たことに、ガザの人たちは激怒している。人質救出作戦が決行された8日は、この戦争でも有数の、甚だしい流血の1日となった。

(英語記事 How Gaza hostage raid ended with Israel striking crowded streets

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