1978年に輸入車への関税をゼロにして以来、苦節30年…戦後初めてアメリカの意に反し、日本が下した「大きな決定」【歴史】

(※写真はイメージです/PIXTA)

2009年、アメリカで突如起こった「プリウスのリコール問題」。トヨタ自動車の豊田社長(当時)が米議会公聴会に呼び出されるという事態にまで発展したこの「問題」は、自動車評論家の鈴木均氏によると、その後はじまるTPP交渉へ向けての、一種の「目くらまし」だったと考えられます。鈴木氏の著書『自動車の世界史』(中央公論新社)より、詳しく見ていきましょう。

2009年にアメリカで起こった「リコール問題」

2009年6月に就任した豊田社長に対し、アメリカが用意した洗礼は強烈だった。突如として浮上した、プリウスをはじめレクサス車も含む大規模な「リコール問題」である。2009年はプリウスが三代目に世代交代した年であり、前年に国内最多販売台数(軽を除く)を誇ったホンダ・フィットを抜き、1997年のデビュー以来、初めて国内首位を勝ち取った年だ。

発端は、カリフォルニア州でレクサス車が急加速して死傷事故を起こしたことだった。事故原因は、規定通りに固定されていない床マットがアクセルペダルに引っ掛かって急加速を起こした、と結論付けられたが、他の車種ではアクセルペダルの戻りが悪い事例について、リコールに発展した。

機械的な問題ではなく、電子制御のプログラミングの問題との指摘も出て紛糾し、2010年2月、豊田社長は米議会公聴会に呼び出された。米運輸省にNASAまで加わった調査の結果、最終的に電子的な欠陥は見つからず、急加速のほとんどは運転者のミス(踏み間違い)と判明した。

いま振り返ると、プリウスのリコール問題はある種の「煙幕」だったように見える。2010年、アメリカのオバマ政権は意を決してTPP交渉に参加した。中国製品を締め出せ、日独に対して高関税を復活させろ、という声をすくい上げて煽り、2017年1月にトランプ大統領が登場するのである。

プリウスの名誉のため、米『コンシューマー・レポート』2011年の検証記事を紹介したい。2002年製で30万キロ以上走ったプリウスは、10年前に計測した走行3000キロ弱の同型プリウスと比べ、バッテリーの劣化はほとんど見られず、実測燃費も僅かに低下したに過ぎなかった。

TPP、日本車の再起

環太平洋パートナーシップ協定(TPP)の原型は、2002年にチリ、シンガポール、ニュージーランドが交渉を開始し、05年にブルネイを加えて署名され、06年以降に順次発効した通称P4協定である。少数国の間で一層の貿易・投資などの自由化と透明性の高いルールを目指した。

このP4協定に目を付け、高い次元の貿易ルールを成長著しい中国に対する包囲網として使い、中国を牽制、「教育」しようとしたのが、米オバマ大統領だった。WTOに加盟し急速に豊かになった中国が「近いうちに自由化・民主化する」との西側諸国の期待に反し、中国は経済が成長するほどにむしろ国家管理を強化するようになった。そして経済力を、軍拡に注いだ。

2010年3月、アメリカ、豪州、ペルー、ベトナムがTPP加入交渉に加わった。自動車や部品の関税低減・撤廃と国家規制に関する不透明性の排除は、アメリカ工場やアジア諸国、中南米の工場で完成車を組み立てる日系メーカーにとってメリットが大きかった。

アメリカの参加をみて、日本もすぐに動いた。同年10月、民主党の菅政権はTPPへの参加を公式に検討すると発表した。交渉への公式な参加は第二次安倍政権の下で13年7月に実現し、15年10月に交渉が妥結、翌16年2月に12ヵ国がTPPを署名した。日本は17年1月に国内手続きを終え、最初のTPP締結国となった。

同じ1月に米大統領となったトランプは、大統領執務室に入ったその日にTPPを離脱する覚書に署名し、月末にアメリカがTPPから離脱した。ここで日本はおそらく戦後初めて、アメリカの意に反する大きな決定を下した。

アメリカが抜け、アメリカへの輸出機会を失って落胆するアジア太平洋諸国に対し、日本は「TPPを死なせない」と説いて回り、残った11ヵ国の交渉をリードし、後継の環太平洋パートナーシップに関する包括的及び先進的な協定(CPTPP)を2018年3月に署名に至らしめた。

18年12月に発効した同協定による経済効果は、外務省の資料(21年12月)によると実質GDP約1.5%の押し上げ(約8兆円相当)、労働供給約0.7%(約46万人)増加とされている。

アメリカを入れた12ヵ国ではそれぞれ約2.6%(約14兆円)、約1.3%(約80万人)とされており、アメリカが抜けた穴は小さくない。同時期に結ばれた日EU経済連携協定(EPA)が「(日本)自動車vs(欧州)ワインとチーズの取引」と呼ばれたとおり、日本は自動車(部品も含む)と電機において相手国・地域の関税撤廃を勝ち取るため、農産物市場を部分開放する取引に応じたのである。

1978年に日本が輸入車の関税をゼロにして以来、30年以上を経てようやく米欧諸国が日本車(と部品)に課す関税を順次撤廃に追い込んだのである。

東日本大震災が世界の自動車産業に及ぼした影響

日本車を一層元気に、という矢先に日本を襲ったのが、3・11だった。東日本大震災による死者・行方不明者は12都道県で死者1万5,859人、行方不明者3,021人(2012年、警察庁)に上り、1923年の関東大震災、1896年の明治三陸地震に次ぐ、甚大な被害をもたらした。行方不明者はなお2,523名(2022年、警察庁)と発表されている。様々な復興支援が行われ、トヨタは東日本大震災をきっかけに2012年、「トヨタ第三の製造拠点」としてトヨタ自動車東日本を宮城県大衡村に設立している。

3・11は日本の自動車産業のみならず、世界の自動車産業に影響を及ぼした。国内では500社近いサプライヤーが被災し、犠牲者も出た。

グローバルなサプライチェーンにも影響が出た。一例として、自動車制御用マイクロコントローラ(マイコン)で約4割のグローバル・シェアを誇ったルネサスの那珂工場が被災し、この不可欠な部品が届かないことでグローバルに自動車生産が停滞した。

矢崎総業は自動車ハーネスのグローバルな大手だが、栃木工場、宮城工場などが被災し、海外のメーカーにも影響が及んだものの、1週間後に稼働可能に戻った。

ハーネスとは、人体でいう神経系のようなもので、車の隅々まで張り巡らされている電気系のことである。バッテリーの正極から出て、エンジンへの点火と発送電、運転席のパネル表示、室内照明、ヘッドライトやウインカーの点灯、空調など全てをつなぎ、最後はバッテリーの負極に戻る。同じ車種の同じ位置にあるスイッチであっても、最上位モデルと廉価版では指示内容が異なることがあり、職人の技を要するのである。

サプライチェーンに不可欠な道路の早期の復旧は、被災地で暴動や略奪が起きないことと併せ、世界から称賛された。NEXCO東日本管内で20路線、854キロにわたり高速道路で被害が発生したが、翌12日には仮復旧を終え、緊急車両が通れるようになった。関東で最も大きな被害が発生した常磐道も、6日後にスピード復旧した。

3・11により、車の使い方、車への人々の期待の寄せ方にも変化が起きた。被災地が停電し、全国的に計画停電が実施されるなか、巨大なバッテリーを積むEVが非常時の家庭電源として注目された。

EVである日産リーフと三菱アイミーブをはじめ、家庭用電源ソケットを装備したプラグイン・ハイブリッド車(PHEV)や、同じく家庭用電源を出力できるHV車が電力復旧まで活躍した。かつて戦後まもない時期、日産車を指し「医者のダットサン」と呼ばれたが、電力が復旧していない被災地の病院でもリーフが電力源として活躍した。

先述のとおり、三菱アイミーブと日産リーフが震災前に登場した意義は大きかった。11年8月、日産と三菱はEVから家庭に電力を供給する規格の統一に取り組むことを発表した。それまではメーカーを超えた互換性がなかったのである。

鈴木 均
合同会社未来モビリT研究 代表

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