『虎に翼』ハ・ヨンスが可視化する“透明化された人々” “愛の裁判所”設立へ正念場の寅子

「その名前で呼ばないで」

多岐川(滝藤賢一)が「香子ちゃん」と呼ぶ女性は香淑(ハ・ヨンス)だった。『虎に翼』(NHK総合)第54話。酔いつぶれた汐見(平埜生成)を自宅に送り届けた寅子(伊藤沙莉)は香淑と再会する。寅子を見て戸惑う香淑の表情に再会の喜びはなかった。

明律大学でともに学んだ“ヒャンちゃん”こと崔香淑のその後について。兄の潤哲(ソンモ)が治安維持法違反の容疑で取調べを受けたことで香淑たちは朝鮮に帰国し、高等試験も断念した。潤哲は朝鮮で逮捕されたが、その後無罪になる。その事件の予審判事が多岐川だった。多岐川は香淑に、朝鮮で法律を学ぶ学生たちの手伝いを頼んだ。

その場所で香淑は汐見と親しくなった。実家の反対を押し切って二人は結婚。多岐川や汐見とともに日本へ戻ってきた。夫の汐見は香淑のメッセージを伝える。「崔香淑のことは忘れて、私のことは誰にも話さないで」と話す香淑は、日本人として生きていくことを選んだ。

第51話でよね(土居志央梨)が指摘した、轟(戸塚純貴)が花岡(岩田剛典)に対して抱く恋愛感情に関して、本作の脚本を手がける吉田恵里香氏は自身のX(旧Twitter)で「エンタメが『透明化してきた人々』」の存在に言及した。「透明化」とは、吉田氏の言葉を借りれば「思い込みや偏見」でカテゴライズし、「無意識」のうちに属性をタイプキャストすることで、個人としてのその人本来のあり方を無視し、なかったことにしてしまうことと理解できる。LGBTQ+のほかに、生まれや民族、思想信条がその対象に含まれうる。

日本人として生きる選択をした香淑はまさに「透明化された人たち」である。香淑が“香子”として自らを透明化したのは、日本で暮らしていくためだろう。日本の統治下にあった朝鮮出身者に対して、根強い偏見と差別感情が今なお存在する。思想犯の嫌疑をかけられた兄と裁判所に勤める夫を持つ香淑が過去を捨てたのは熟慮の末の決断であり、そのような負担を個人に背負わせる社会のあり方に今作は再考を促していると言える。

その上で、いま寅子にできることはあるのか。多岐川の答えは明快だった。「どうするか決める権利は全て香子ちゃんにある」と多岐川は言う。「助けてほしくても、そう言えない人だっているんじゃないでしょうか?」と食い下がる寅子に、多岐川は「じゃあ、この国に染みついている香子ちゃんへの偏見を正す力が佐田君にあるのか?」と問いかけた。

昼あんどんの多岐川の言葉は稲妻のように鮮烈で、まるで滝に打たれるようだった。多岐川は、単に「できないことを口にするな」と言っているわけではない。香淑が背負っているものを重々承知した上で、多岐川は寅子に対して、自らができることに注力するよう求めた。「君が家を出てから家に帰るまでの時間は、家庭裁判所設立のために使いたまえ」。なぜなら「今この日本には愛の裁判所が必要」だからである。

そう言いつつも、各地にある少年審判所と家事審判所の協議は難航していた。そんな折、花岡の妻の奈津子(古畑奈和)が寅子を訪ねてくる。花岡を助けられなかったことを詫びる寅子に、奈津子はチョコレートのお礼を伝えた。闇米に手を出さなかった花岡は妻と子どもの笑顔を喜び、寅子に感謝していたのだ。桂場(松山ケンイチ)の一言で寅子は現実に引き戻される。家裁設立のタイムリミットまであと2カ月だ。
(文=石河コウヘイ)

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