北陸最大級のウメの産地・若狭町 始まりは2人の豪農にあった 180年の歴史の謎を解き明かす【福井発】

6月、福井の景勝地として知られる三方五湖(みかたごこ)一帯は、ウメの収穫で活気づく。若狭町には北陸最大級のウメの産地があり、「福井梅」のブランドで全国販売される。しかしなぜ、若狭町にこれほどまでにウメが広がったのか調査した。

若狭町のウメ栽培の歴史をひもとく

若狭町の梅(ウメ)の歴史は江戸時代後期。そこからなぜ、これほどまでにウメが広がったのか。

手がかりを探すべく、若狭町でウメを販売する女性に聞いたところ、「昔、ウメを栽培をしろと偉い人が言ったため広がった…とか?」と詳しく分からないようだった。

場所を移そうとすると、「父を呼んできます。ウメの研究者なので」という。これは期待できそうだ。

娘に呼ばれ、取材に答えてくれたのは、渡辺毅さん。ウメの研究で博士号を取得したまさに“梅博士”だった。「ここから少しいったところに伊良積(いらづみ)という地域がある。そこがウメの発祥地」と大きなヒントを教えてくれた。

三方五湖一帯に広まった理由は“斜面”

車を走らせること5分、若狭町・伊良積地区に到着。

20世帯ほどの集落を散策していると、古い石碑を発見した。そこには「特産 梅発生地天保年間」との文字が。

伊良積地区でのウメの歴史を教えてくれるのは、この地区出身の田辺常博さん、72歳。伊良積地区の歴史を3年かけてまとめた本『西田梅の発祥地 伊良積の歴史』を手がけた田辺さん。

田辺さんは「栽培が始まったのが江戸時代の天保年間。平太夫(へいだゆう)と助太夫(すけだゆう)という力のある人の畑に植えられていたウメの木が、始まりといわれています」と話す。

2人が栽培するウメの木は、味の良い実がなると評判に。周囲の農家が接ぎ木を譲り受けてウメが広まったのが、発祥の歴史だという。

ウメの始まりは分かったが、三方五湖一帯に広まったのはなぜか。

若狭町歴史文化課の小島秀彰学芸員は「三方湖周辺は非常に平地が少なく山地が多い。水田が限られているので、コメを作るよりもウメを生産したり、商品作物をつくったりすることで生計を補っていたと考えられる」と解説する。

平地が少ない三方五湖周辺。山の斜面でも栽培できる作物として、ウメが選ばれたというのだ。

軍需物や梅酒ブーム『福井梅』の歴史

明治20年代ごろからは、品種改良もスタートしたことで品質が高まった。軍需物として、日本軍に寄贈された記録もある。

昭和30年代、栽培面積が急拡大する。その理由は“梅酒ブーム”だった。小島学芸員によれば「昭和31年以降、酒税法が改正されて、青梅から各家庭でも梅酒をつくれるようになった」という。

戦時中は品物が統制されていて梅酒をつくれなかったが、この酒税法の改正により、青梅の需要が急激に伸び、昭和40年代には価格が3倍に。“グリーンのダイヤ”と呼ばれ、若狭町のウメの拡大につながっていたのだ。

昭和42年には、『福井梅』としてブランド化。栽培面積は日本海側最大級、収穫量は全国3位と福井を代表する特産品にまで成長を遂げたのだった。

福井梅の未来に立ちはだかる課題

若狭町のウメの発祥地、伊良積地区でウメ農家をする熊谷竜太さん。「若狭町のウメ、紅映(べにさし)はよその県にない品種で食感が違う。肉厚でボリュームがあるのが一番の魅力」と誇らしげに話す。

竜太さんは現在45歳。江戸時代から続く農園を継ぐため、20年前に県外から地元、伊良積に戻ってきた。剪定(せんてい)、肥料、収穫、天日干しなど、ウメ農家は1年間を通して作業を続ける。

ウメ農家・熊谷竜太さん(45):
大変です。でも、量がとれたときとか、きれいなウメを見たりすると、気分が上がりますね

福井でとれるウメの集荷量は減少傾向にある。1989年には約1800トンあったが、2023年には約1000トンと、30年余りで約4割減少した。背景にあるのは後継者不足だ。

父の守(まもる)さんが、朽ち果てた梅農園へ案内してくれた。この場所は、かつて毎年約3000人ほどが訪れる観光用の梅園があったが後継者がいなく、手が行き届いていないという。「雑木が生えてきて、朽ち果てていく」とさみしそうに守さんは話す。

それでも、息子の良太さんは伊良積に戻ってきた。ウメへの楽しい思い出が、その一歩を後押ししていた。

良太さんは「子どもの頃からウメを収穫したり、家族で選別したりという姿を見てきたので、それは心に残っている。代々続いていた歴史があるので、それを絶やしたくない。地元の人は、伊良積がウメの発祥地だと思ってやっているので、私もそこを強く思ってウメ農家を続けていきたい」と力を込めた。

(福井テレビ)

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