【読書亡羊】世界には「反移民で親LGBT」「愛国的環境保護派」が存在する  中井遼『ナショナリズムと政治意識』(光文社新書) その昔、読書にかまけて羊を逃がしたものがいるという。転じて「読書亡羊」は「重要なことを忘れて、他のことに夢中になること」を指す四字熟語になった。だが時に仕事を放り出してでも、読むべき本がある。元月刊『Hanada』編集部員のライター・梶原がお送りする時事書評!

ナショナリズムは右派のもの?

「ちょっと右寄りですが」「右向け右」といえば、月刊『Hanada』花田編集長のネット番組のタイトル。では編集長は何をもって自身を「ちょっと右寄り」と認識しているのだろうか。「左の朝日新聞を批判しているから」なのか、「憲法改正を支持しているから」なのか。

ある政治スタンスを右と左で分け、さらに保守・リベラルと分類し、賛成したり批判したりする言説はSNS上にもあふれているが、そもそも「なぜこのスタンスは右、と認識されるのか」を改めて聞かれると、確かに答えるのは難しい。

「右寄り」との自覚があれば、「欧州で極右勢力が台頭」との報道に、「自分たちと同じような勢力が『極右』呼ばわりされたうえ、危険視されている」となんとなく感じがちだが、そもそも「右」にくくられているからと言って同じ価値観を共有しているとは限らない。

そうした「右」「左」の区分を改めて解きほぐし、ナショナリズムとの関係を分析したのが中井遼『ナショナリズムと政治意識――「右」「左」の思い込みを解く』(光文社新書)だ。

日本では今のところ、「移民も含む多様性社会」を目指すのが左であり、「日本の伝統、習慣に影響が及ぶような移民の増加には反対」するのが右だが、世界を見渡すと、「反移民を掲げる左」のいる国もある。また、LGBTのような性的多様性に関しても、日本では右の警戒心が強いが、フランスでは右は親LGBT的なのだという。

「いや、そうはいってもナショナリズム、つまり愛国心を重んじているのは当然、『右』でしょ」

本書によれば、実はこれもそうとは限らないというのだから驚いてしまう。

「民族団結」を掲げていた左派

日本でも戦後しばらくは、民族の統一や団結といった標語は、右派以上に左派が掲げるメッセージでもあった。なぜならそれこそが、軍国主義を打倒し、日本の民主主義の社会的連帯を達成するための基盤として必要なものだと考えられたからだ。

今や「日本民族」という言葉を使うだけで極右・排外主義者扱いされかねない時代だが、確かに沖縄の米軍基地への反対運動はどう考えても「ナショナリズム」に基づくものとしか言いようがない。

そういうと「あれは危険で人工的なナショナリズム(愛国心)に基づくものではなく、人間としてより自然なパトリオティズム(愛郷心)だ」という指摘もありそうだが、本書も述べる通り、両者は〈分かち難く絡み合っている〉。

にもかかわらず二つを分けて「ナショナリズムをことさら危険視して避ける」姿勢には問題がある、という。その理由を、中井氏はこう述べる。

ナショナリズムは人々を抑圧したり排除したりすることもあれば、人々に平等や助け合いをもたらすこともあるからだ。その価値は、両義的である。

確かに、社会福祉を考えても「なぜ同じ『国』とされる範囲内に生まれただけで、自分の稼ぎの一部を別の誰かのために使わなければならないのか」を考える際に、そこにナショナリズム、つまり「同じ政治的単位に属し、あるいは同じ文化や伝統を共有する者同士は助け合うべきだ」という土台は不可欠だ。

この点で昨今の「右」は「同胞を助ける」という点で非情な冷たさを発揮するケースが散見されるが、これは「右」という政治意識の位置付けに経済に対する志向が影響するとともに、実はその位置付け自体が流動的であることを示しているといえるだろう。

また、興味深いことに、「ナショナリズム」をタイトルに冠する書籍は年々増加しているのだという。本書の解説を読めば納得で、グローバル化が進んでいることがその一因と言えそうだ。

人間のアイデンティティが「他人との違いを見ることで自分を知る」ことによって形成されるとすれば、国のアイデンティティもまた同様なのだろう。グローバル化と情報化が進み、他国の情報に接することで、むしろナショナリズムへの関心や執着が高まるのは自然なことのように思える。

アメリカは「特殊」

さて、本書では「世界価値観調査」を使って、関連が強いとされる「ナショナリズムと排外主義」や、左右を分けるイシューになっていると思われるLGBTや男女同権、環境問題などとナショナリズムや国家への帰属意識の関係を国ごとに分析している。その結果は実に面白く、「右は反LGBT的である」との理解が日本のケースとは全く逆にひっくり返っている国もある。

また、何かと言えば日本社会との比較に出されるアメリカの事例が、世界各国と比べて突出して「特殊」であることも分かる。

日本の言論でも、右の立場から(自らをアメリカの右と重ねて)米国左派を批判するものは少なくないが、もともとの土台が日米では全く違っており、左右の政治思想についても実はかなりのずれがあることは踏まえる必要がありそうだ。

例えばアメリカは世界で最もナショナルアイデンティティと環境保護思想が負の関係にある社会で、両者は政治的に対立しているという。

日本でも右は環境保護やエコと聞くと何か偽善的なものを感じる人も少なくないだろうが、一方で右は古き良き日本の風景は末永く保たれるべきだと思っているのではないか。環境保護派が推進する再生エネルギーに対する否定的言説の焦点が、太陽光パネルによる環境破壊である点などを考えても、ナショナルアイデンティティと環境保護が負の相関関係にあるとは言えない。

実際の調査でも、日本では「環境保護とナショナリズムは別次元の問題」とされているのだ。

SNSは大荒れでも実際は…

とはいえ、日本でもSNS上では右や左の党派性を帯びた者同士の争いが絶え間なく起き、国の安全保障をめぐる問題でも建設的な議論が進めづらい状況にあるように感じるが、本書にはこうある。

実は日本という国は世界的に見た時にあまり極端に強い特徴がない、よくある政治意見の散らばり方が見られる。

そもそも日本ではナショナリズムにしても「あなたは右か左か」との認識についても「わからない」と答える人が多いのだ。

ちなみに、本書ではネットでよく言われる「自称・右でも左でもない普通の日本人」は(主に右に)偏っている説、についても言及があるのでご確認いただきたい。

一方で、LGBTや移民の問題、あるいはワクチンや選挙の陰謀論など、近年ではSNSや動画を通じて、アメリカ的な政治対立(とそれを煽る素材)が直に日本に輸入されている面もある。

そうした中には、社会の分断を目的とするロシアや中国の情報工作も紛れているに違いない。いずれも嫌悪感や危機感をことさら煽るようなものが多く、そうした情報に引きずられる形で、一部の人たちが極端化して見えるのが実態だ。

また、あるテーマに対するスタンスを「左」「右」などとラベリングした上に、「その逆こそ正しい」とするかのような言動もSNS上では散見される。だが本書を読めばわかるように、そうした一見わかりやすい分類はほとんど意味をなさないし、現実理解からも乖離してしまうのだ。

率直に言えば、ラベリングからの逆張り、つまり「〇〇は左(右)だ! その逆が正しい!」的なふるまいで自己の立ち位置や主張を見失っているケースも散見される。本書によれば、そうでなくても左右の位置取りは時代によって変わるのに、相手の逆張りばかりしていては自己認識の土台を見失うことになる。

本書を読んで、まずはナショナリズムや政治スタンスとはどういうものかを見直してみてほしい。

梶原麻衣子 | Hanadaプラス

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