「カネも大して出ねえんだもんな」妻の名声に嫉妬する心の狭い無職夫…妻を家出に追い込んだ「卑屈な言動」

千尋は玄関を開ける度に、気がめいっていた。

靴が雑然と置かれ、廊下にはゴミ袋が並んでいる。いつか掃除をしようと思っているのだが、今の忙しさではそういうわけにはいかない。千尋は目の前のゴミから目をそらし、締め切られた部屋の扉をノックした。

結婚をしたときに借りた3LDKのマンション。その一室は作業部屋になっていて、夫である卓志はいつもここにいる。ノックをして部屋を開けると、懐かしいインクの匂いが漂った。その奥で卓志は難しい顔をしながら、机とにらめっこをしていた。

「遅くなってごめん。夕飯、買ってきた」

「……ああ」

結婚をして15年。お互い40歳を超えても、晩ご飯を一緒に食べるというルールは欠かさなかった。卓志と向かい合う食卓に、千尋は買ってきた弁当を並べる。

千尋は卓志の対面に座り、割り箸を割った。

「どう? 順調?」

「ああ、締め切りには間に合うよ」

卓志は漫画家。志藤現在というペンネームで活動をしている。18歳でデビューを果たし、今も現役で漫画を描き続けているが、なんとかこぎつけた連載を始めては半年~1年くらいで打ち切られるということを繰り返している。今も、連載中の『織田信長が宇宙人に支配された近未来にタイムスリップしてくる』というバトルSF漫画の打ち切りが決まり、来月の完結に向けて広げた風呂敷をたたんでいるところだった。

妻の描いた漫画はTikTokがきっかけでドラマ化決定

「お前は、どうなんだよ?」

「連載のほうは問題ないよ。でもドラマの脚本のほうがちょっとね。勝手も違うし、わたしなんかは素人だから、大変」

千尋の職業も漫画家である。2人は漫画家夫婦だ。

千尋のペンネームは天龍院アゲハ。卓志とは違い、連載デビューをしたのが35歳と、10代から活躍するような漫画家もいる業界のなかでは遅咲きだった。

「カネも大して出ねえんだもんな」

「そうだね。でも、やりがいはあるし、楽しみにしてくれてるファンもいるから」

からあげをかみ砕きながら吐き捨てる卓志に、千尋は笑顔を返す。

天龍院アゲハは、今、注目されている漫画家だ。千尋の描いていた葬儀屋をテーマにした漫画『里見葬儀社でまたあした』がTikTokで紹介され、大きくバズった。元々千尋がアルバイトでやっていた経験を元に描いた作品なのだが、葬儀という暗いイメージを一新するコミカルな作風が世間にウケたらしい。正直なところ打ち切りの話がちらつくような作品だったのだが、SNSの力で一気に人気作へと押し上げてもらった。

さらに現在、ドラマ化の話が進められていて、主役には朝ドラで主演を果たした女優が決定しており、異例ではあるが千尋も数名のプロの脚本家とともに脚本執筆に参加するかたちを取らせてもらっている。

「いいねぇ、売れっ子は。安泰じゃん」

卓志の言葉に棘を感じたが、千尋は無視する。

「そうね。単行本も売れてるし、原稿料も上がるって」

「どれくらい? 1万くらいか?」

「分かんないけど、それくらいかな」

漫画家の主な収入は原稿料と印税になる。印税は単行本が刷られたときに入ってくるお金で、出版社や漫画家本人のキャリアにもよるがだいたい8%から10%と言われている。一方の原稿料はそのまま原稿1枚における報酬のこと。売れっ子になると1枚で2万~3万円ほどもらえるが、新人や売れてない作家だとだいたい5000円くらいと言われ、実際に千尋の原稿料もついこの前までは5000円だった。

卓志は食事を終えると、すぐに立ち上がった。

「もう仕事に戻るの?」

「ああ。今回はいけると思って、話を広げてたからな。3話でたためとか言われても、大変なんだよ」

卓志は自虐的な一言を残してリビングを出て行った。

睡眠時間を削るほど多忙な生活に

間もなく、千尋の漫画のドラマが正式に動き出し、テレビでも宣伝されるようになるにつれて、千尋の環境は大きく変わっていった。

連載を抱えながら、インタビューやワイドショー出演のオファーなどが増えた。ありがたいことに漫画の単行本は重版があり、本屋でも平台で並べられるようになる。電子書籍の売り上げも好調だと、担当編集は教えてくれた。

けれど全てが夢に見ていたものであるはずなのに、現実はそれらをかみしめることすらできないほど忙しかった。

長らく卓志と同じ作業部屋で仕事をしていたが、アシスタントを雇うことになったので、千尋だけ別で作業部屋を借りた。卓志と違い作業のすべてがデジタルなのでアシスタントも遠方で構わないのだが、やっぱり対面のほうが細かな修正指示が伝わりやすく、仕事がスムーズだと思ったからだ。

押し寄せてくる漫画以外の仕事に対処するため、真っ先に削られるのは睡眠時間で、千尋は泊まりこみで漫画を描く日々が続いた。忙しかった。24時間しかない地球の時間を呪(のろ)った。

それでも千尋はできる限り、卓志との時間を作ることだって忘れなかった。その日は連載原稿がようやく片付き、久しぶりに家で卓志と夕食の時間を確保することに成功した。もちろんまだ表紙のカラーと、来週に迫るドラマの放送開始に合わせて企画されていたノベライズの原稿チェックがあるから、夕食を終えたら仕事場に戻るつもりだった。

けれどこの1時間を捻出するために、2日分の睡眠時間を削った。重りを背負っているかのような猫背で玄関を開けた千尋は、思わず目を丸くした。

玄関の靴は整然と並べられていて、たまってたはずのゴミ袋の姿もない。卓志がやってくれたのだ。リビングに向かうと卓志は作業部屋ではなく、ソファに寝転がって携帯を触っていた。

作品への侮辱は許さない

「……ただいま」

「おう、おかえり」

「掃除とゴミ、ありがとね」

「ああ、いいよ。無職の俺にはそれくらいしかやることないからな」

あれから2カ月、卓志は連載を終えていた。

「忙しそうだな」

「うん、さすがにしんどいね」

「さすが、売れっ子は違うな」

へへっと笑う卑屈な顔に、無性に腹が立った。それでも千尋にはけんかをする暇も体力も残っていない。争いは心身のほどよい余裕があって始めて起きるんだな、と心のなかにメモをする。

「そんな大層なものじゃないわ」

「TikTokでバズったからって、そんなにもてはやさなくてもな」

卓志は無精ひげを蓄えた頰をなでて、ソファから身体を起こした。

「TikTokで紹介される前は人気のある作品ってわけじゃなかったんだ。TikTokで紹介されたって、中身が変わったわけじゃないのに、よくあそこまで称賛できるよな」

「まあね。……でも卓志だってよく言ってるじゃない。まず見つけてもらうのが大変なんだって」

「ま、今はいいけどよ。流行とかトレンドとか、世間って言うのはそういうものに過剰に反応しすぎだよ。珍しいだけの作品じゃ、すぐに飽きられておしまいだ。だからお前もあんまり浮かれ気分でいるんじゃねえよ。メッキなんてすぐに剝がれるんだから」

千尋は卓志をにらんだ。胃の奥のほうが、ふつふつと煮えるのを感じた。

浮かれてなどなかった。そんな暇があるわけがないし、むしろ重版だドラマ化だノベライズだと急に舞い込んだうれしいはずの話のどれひとつとして、確かな実感も手応えも持てずにいた。だがそれ以上に腹が立ったのは、自分が実力以上の評価を得ていると卓志が言っているように聞こえたことだった。

『里見葬儀社でまたあした』は確かに葬儀屋というテーマとコミカルな作風のミスマッチが取り上げられ、注目を浴びることが多い。だがコミカルなタッチのなかにも、人と人との別れや、老老介護、ヤングケアラー、尊厳死など、たくさんのテーマを真剣に盛り込んだ作品でもある。それを、一過性のはやりで水物みたいに言われたことは侮辱も同然だった。

「だったら、あなたもSNSでバズって、ちゃんと売れる作品描けばいいんじゃない?」

語気に思わず力がこもった。眉をひそめた卓志が舌打ちをする。

「……知ってるだろ。俺はそういうこびた作品は描かねえ。バカでも楽しめるような大衆向け作品なんて描く気にもならないね。分かるヤツにだけ伝わる作品が描きたいんだ」

「……あんたの作品にそんなファン、今までいないでしょ?」

卓志はほんの一瞬固まり、眉間に深い皺(しわ)を刻んだ。

「何だと……?」

「ファンがいないからあっさり打ち切られて、いま無職なんでしょ? 分かる人にだけ伝わる作品? 笑わせないでよ。そもそも読者がいなきゃ、誰にも伝わんないから!」

あとは売り言葉に買い言葉。出会って以来、経験したことのない大げんかをした。卓志の投げたスマホが壁をへこませた。千尋が振り回したかばんが机の上の書類の山を崩し、倒した花瓶を粉々に割った。

「出てけよ!」

「もちろん出てくわよ!」

お互いに喉を裂くように叫んだ。千尋は家を飛び出した。もう春も終わるというのに、夜の空気は少し冷たい気がした。

●ついに衝突した2人。妻の名声に嫉妬するかのような夫。夫婦関係はどうなっていくのだろうか……? 後編アシスタントだった妻が先に売れて自分は無職に…離婚を決めた漫画家夫婦の夫が「婚姻中には言えなかった」一言にて、詳細をお届けします。

※複数の事例から着想を得たフィクションです。実在の人物や団体などとは関係ありません。

梅田 衛基/ライター/編集者

株式会社STSデジタル所属の編集者・ライター。 マネー、グルメ、ファッション、ライフスタイルなど、ジャンルを問わない取材記事の執筆、小説編集などに従事している。

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