『仮面ライダーV3』宮内洋が師匠・丹波哲郎との『キイハンター』共演秘話、「あとは自分で見て盗め」“アクションの神様”から学んだこと

宮内洋 撮影/角田忠良

1973年から放映された『仮面ライダーV3』で主演を務め一躍ヒーローとなった俳優・宮内洋。1968年、東映ニューフェイスに合格してデビュー。その後、多くのテレビドラマ、映画に出演してきた。数々のアクション作品に出演した彼の「THE CHANGE」とは?【第1回/全2回】

子供の頃から、「なんとなく自分は俳優に向いているな」と思っていました。

それで、中学を卒業するときに、丹波哲郎先生のもとを訪ねます。僕の父が、先生の育ての親のような方と知り合いだったので、そこを頼ったのです。

丹波先生からは「まだ上があるだろ」と高校に行くようにと言われました。3年後再び丹波先生のもとに行くと、「もっと上があるだろ」とのこと。“大学で勉強をしておけ”ということでした。

「芸術学部とか映画学科とか、そうしたところに行けばいいですか?」と質問したら「そういうところではなく」と。先生は、「役者をやって、もしダメだったことを考えて、世間様と会話ができるようになっておくべきだ」という考えでした。それで、日大の商学部に進みます。

東映ニューフェイスに合格したのは、大学卒業と同じタイミングです。ニューフェイスの先輩には、すごい方々がいますが、僕らの頃は特別扱いされませんでした。

東映の現場では、名前を呼ばれることはずっとなかった。スタッフも大部屋の方たちにもみんな「おい、ニューフェイス」ですよ(笑)。

ただ、その時代に、わらじの履き方、刀の抜き方や持ち方なんかを、大部屋さんや剣友会の方たちに教わりました。それは、とても勉強になりました。

僕は中学のときから柔道と剣道をやっていて、高校に入ってから空手も習った。体を動かすのが好きなんです。一方で、声のいい丹波先生と違って、僕の声はハスキーで聞き取りづらい。役者としては不利です。だから、当初からアクションでやっていこうと思っていました。

“アクションの神様”千葉真一さんとの共演が、うれしかった

デビュー作は東映に入って2年目、『あゝ忠臣蔵』(フジテレビ系)というドラマです。山村聰さんが大石内蔵助で、僕は四十七士の間新六の役でした。

それが終わると、丹波先生が主演の『キイハンター』(TBS系)にレギュラー入りします。大変な人気番組でしたから大きなチャンスでした。

先生は、「お前に芝居について教えることは何もない。俺に教えられるのは霊界のこと、それからもうひとつ、催眠術だ」と(笑)。

僕が運転手を務めているとき、後ろから霊界について一生懸命しゃべるんです。それも毎日。片方の耳から入ったものが、もう片方の耳から抜けていましたけど。

でも、俳優として丹波先生は尊敬できる方です。よく、先生がセリフを覚えず、カンペを読んでいるといった話が面白おかしく語られますよね。そんな噂が流れるのは、わざといい加減な人を装っていたからです。

「おーい、宮内、台本どこだ」「俺、どこに出ているんだ?」といかにもちゃらんぽらんにやっているようなふりをしていた。前の回の台本を持ってきて、「おい、これじゃないのかよ」と言ってみたりする。そういうポーズを作る。でも、台本を覚えていないなんてことはない。『人間革命』(73年)や『砂の器』(74年)など長いセリフが多い作品でも完璧に頭に入っていました。

そして『キイハンター』では、“アクションの神様”千葉真一さんとの共演が、うれしかった。ただ、「負けないぞ」という気持ちはありました。

千葉さんは後輩の面倒見がいい方で、例えばアクションが1から10まであるとしたら、5ぐらいまでは教えて、“あとは自分で見て盗め”、そういう指導の仕方でした。それも、単に見学しているだけじゃなくて、カメラの後ろから見ろと。つまり、テレビ画面や映画のスクリーンの四角い枠内でどのように見えているかを意識しろということでした。

宮内 洋(みやうち・ひろし)
1947年6月14日、東京都生まれ。1968年東映ニューフェイスに。以後、多くのテレビドラマ、映画に出演。80年代には舞台に活動域を広げ、新宿コマ劇場、明治座、御園座などの大舞台でキャリアを重ねる。特技は、空手(三段)、柔道(初段)、剣道(三級)、乗馬、スキューバダイビング。料理も得意で、“うまいツマミを作りたい”という理由で調理師免許も取得。得意料理は餃子で、人を招いて大規模な餃子パーティをひらくこともある。

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