『仮面ライダーV3』宮内洋が閉塞性動脈硬化症で心臓に人工血管、特撮ヒーロー作品がくれた誇り「つらいことも苦しいこともいっぱいありました」

宮内洋 撮影/角田忠良

1968年、東映ニューフェイスに合格。以後、多くのテレビドラマ、映画に出演してきた俳優・宮内洋。数々のアクション作品に出演した彼の「THE CHANGE」とは?【第2回/全2回】

僕にとって転機となる作品は『仮面ライダーV3』(TBS系)でした。主演することが決まったあと、まだ放送中だった最初の『仮面ライダー』を見る時間がなかったので、ビデオデッキを買って録画して研究しました。当時のビデオデッキは20万円ぐらいしました。ものすごく高かった。オープンリールで、30分を録画するのに1万円ぐらいかかったんです。

番組が始まると、オートバイを片手で運転できる練習を始めて。次に両手を離してもバランスを保てるようになる。そこから、走るバイクの上で変身ポーズが生まれました。

その後、『秘密戦隊ゴレンジャー』(NET系)、『快傑ズバット』(東京12チャンネル)、『ジャッカー電撃隊』(NET系)、と特撮作品が続きます。他にも必殺シリーズの『助け人走る』(TBS系)、『刑事くん』(TBS系)、『暴れん坊将軍』(テレビ朝日系)、そして、再び丹波先生と『Gメン’75』(TBS系)と、デビューから途切れずにドラマに出続けていました。渥美清さん主演の『ヨイショ』(TBS系)というドラマもありましたね。

ず〜っと毎日、撮影につぐ撮影で。しかも東京と京都の往復でね。作品が重なることもある。夜中の1時ぐらいに帰って、2時間ぐらい寝て、夜が明ける前にロケ地に自分でクルマを運転して向かって。そんな状態でケーブルカーの上でアクションをやったりしていたんですよね(笑)。

特撮ヒーロー作品というのは、日本で独自に発展したもので、海外にもファンが大勢いますよね。僕は何本もの作品でヒーローを演じられたことを誇りに思っています。

僕はストレスをためない

幼少期のヒーローは嵐寛寿郎さんの『鞍馬天狗』でした。杉作が水牢に閉じ込められ、水がどんどん溜まっていく危機一髪の状態。そこに颯爽と白馬にまたがった鞍馬天狗が登場するんです。映画館で観客は拍手喝采。それが原点としてあります。たまたまなのですが、『V3』『ゴレンジャー』『ズバット』の殺陣師・高橋一俊さんという方は、嵐寛寿郎さんのお弟子さんでもある。僕はその方から殺陣を教わりました。

役者として次の転機となったのは舞台に引っ張ってもらえたことですね。舞台には映画やテレビにはない喜びがある。自分のやったことに対する答えとして、目の前のお客さんから拍手をいただける。舞台の魅力を知ってからは、日舞を習い、所作の勉強もしました。

これまで、つらいことも苦しいこともいっぱいありましたが、僕はストレスをためない。酒を飲んでケ・セラ・セラでやってきました。

2008年には、舞台で倒れかけ、病院で「閉塞性動脈硬化症」と診断され、“今すぐ入院だ”と言われます。

「それは困る。明日から1か月舞台があるから、それが終わったら入院します」と先生と約束して、公演が終わってから手術を受けました。以来、心臓に洗濯機のホースみたいな人工血管がつながっています。

手術から10年以上たちましたが、今も酒がうまい。週3日はジムで運動しますが、それも終わったあとにうまい酒を飲むためでもある。

今は76歳です。これからも、ケ・セラ・セラの精神でやっていきたいです。まだ、発表段階ではないのですが、新しい映画の企画もあります。それも実現させたいです。

宮内 洋(みやうち・ひろし)
1947年6月14日、東京都生まれ。1968年東映ニューフェイスに。以後、多くのテレビドラマ、映画に出演。80年代には舞台に活動域を広げ、新宿コマ劇場、明治座、御園座などの大舞台でキャリアを重ねる。特技は、空手(三段)、柔道(初段)、剣道(三級)、乗馬、スキューバダイビング。料理も得意で、“うまいツマミを作りたい”という理由で調理師免許も取得。得意料理は餃子で、人を招いて大規模な餃子パーティをひらくこともある。

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