巨人では「押し潰される」 “兄弟合わせて1.5億円”異例の争奪戦…西武が制したワケ

西武入団会見に臨む松沼博久氏(左)と雅之氏【写真:産経新聞社】

松沼博久氏の弟・雅之氏も東京ガス入社内定…夢見た兄弟での都市対抗制覇

伝統球団より新しいチームに魅力を感じた。野球評論家の松沼博久氏は、「西武ライオンズ」が発足した1979年に新人王に輝くなど、アンダースローの先発として西武一筋で112勝をマークした。「いつか同じチームでやったら面白いと思っていました」。自身と同じ投手で、4歳違いの弟・雅之氏と共にドラフト外でプロ入りした。

「夢はプロ野球選手でしたけど。僕は20代半ばになっていましたし、もうプロには行きませんと宣言していました」。松沼氏は1978年、社会人野球「東京ガス」のエースとして夏の都市対抗で1試合17奪三振の新記録を達成。秋の日本選手権でもチームを準優勝に導いていた。

兄とは対照的な上手投げの雅之氏は当時、東洋大4年。日米大学野球の代表メンバーとして3勝(2完封)を挙げ、日本の優勝の原動力となった。「僕の中では、アイツの方が優秀なピッチャーだと見てました」と言う。

弟は高校(茨城・取手二)、大学ともに兄と同じルートを歩んでいた。その後の進路も東京ガスへの入社が内定。納会にも出席し、挨拶していたという。「まだ東京ガスは都市対抗を制覇したことがありませんでした。怖い物知らずで、僕は『弟と2人で頑張って優勝します』と言ってましたね」。

「兄弟で同じチーム」の夢を、東京ガスで叶える準備は整った。ただ、慕っていた監督の異動が決まった。「せっかく2人一緒にできるようになったのに。絶対この人のために兄弟でやってやろうと思っていたので……」。残念な側面もあった。

西武でプレーした松沼博久氏【写真:藤浦一都】

ドラフト外での争奪戦…巨人は長嶋監督が直接出馬

プロ野球はこの年の秋、激動の時を迎えていた。クラウンライターが西武となり、本拠地も福岡市から埼玉県所沢市に移転することに。“野球浪人中”だった江川卓投手の対応を巡って、巨人が11月22日のドラフト会議を欠席したのだ。巨人はドラフト外で新人の獲得を探るという報道が出始めた。「その中に僕たち松沼兄弟の名前が挙がっていたんです」。

松沼氏は公私に多忙な時期を迎えていた。12月9日に挙式。その後は社会人ベストナイン表彰式のため、ハワイへの新婚旅行を遅らせることになった。「ハワイに行った頃には、オファーがありそうな雰囲気でした。でも、女房には黙っていました」。帰国すると、巨人から兄弟での入団を勧誘された。

巨人との会談。“ミスター”こと長嶋茂雄監督から必殺の口説き文句が飛び出した。「長嶋さんて派手じゃないですか。パッと両手を広げて『僕の胸に飛び込んでおいで!』と仰って頂いた」。感激で胸がいっぱいになった。

一方で巨人側の見通しを冷静に判断してもいた。「兄弟なんだけど、弟は1年間はファームで鍛えるというような口ぶりでした。一緒に1軍でやりたい気持ちがあったから、『どうしようかね』と弟と相談しました」。

巨人に抱いた不安「押し潰されてしまうのでは」…西武を選択

ジャイアンツとの会談からそんなに日を置かず、西武との交渉に臨んだ。根本陸夫監督は「兄弟2人でこの新しいチームを手伝ってくれないか」と来た。松沼氏は回想する。「そこは、さすがは“親分”と呼ばれる方ですよね。いかにも『2人とも1軍の試合で起用するから』みたいな迫力が物凄く伝わってきたんですよ」。

伝統のジャイアンツと新生ライオンズの選択。決定打は「西武は新しいチームだし。多分本当に起用してくれるんじゃないかな、と考えました。僕は使って貰えれば、やれるという自信がありました。巨人は人気チームなので押し潰されてしまうのでは、と変な不安があったんです」。

1979年1月12日。松沼兄弟は西武と正式契約を結んだ。発表前には堤義明オーナーが東京ガスを訪れ、兄弟の獲得に関して最終的な挨拶を済ませていた。契約金は2人合わせて推定1億5000万円で、巨人の提示額より多かったと報じられた。当時としては破格の条件だった。松沼氏は「金額? 知らないけどね」と笑う。

松沼氏は4月12日の阪急戦(平和台球場)に先発し、プロ初登板を果たした。2番手は雅之氏。根本監督は言葉通り、兄弟をデビューイヤーからきっちりフル回転させていくのだった。(西村大輔 / Taisuke Nishimura)

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