映画『からかい上手の高木さん』が打破したラブコメの定型 作品自体への分析的な視点も

10年間の連載を終え、2023年に感動のフィナーレを迎えた漫画『からかい上手の高木さん』。TVアニメ版も現時点で3期継続している人気作品だ。さらに、2024年にTVドラマ版が放送され、日本映画界の俊英・今泉力哉監督が手がけたことでも話題となった。初の実写映画版となる、映画『からかい上手の高木さん』は、そのドラマに連なる後日談を描いた作品として、やはり今泉監督によって演出される一作である。

教室の隣の席の男子・西片(にしかた)をからかってばかりいる女子・高木さんと、そんな高木さんに対抗意識を燃やしながら、結局いつもからかわれてしまう西片……そんな中学校の同級生同士の微笑ましい関係を描いた青春恋愛コメディという内容は、原作漫画とは変わらないものの、TVドラマ版は異なった展開が描かれていくところが特徴的だった。からかい、からかわれる関係が発展しないままに、二人は別れの時を迎え、遠く離れた場所に住むこととなってしまったのだ。

それから10年もの年月が流れ、地元の島で体育教師となっていた西片のもとに、あの高木さんが再びやって来る。成長した二人を演じるのは、永野芽郁と高橋文哉だ。そんなオリジナル展開の作品が、何を真に表現しようとした作品なのかを、ここでは考察していきたい。

原作漫画やアニメ、ドラマ版を鑑賞した人なら分かるように、『からかい上手の高木さん』は、からかう高木さんとからかわれる西片の二人のやりとりが、限定された舞台のなかでシチュエーションコメディのように描かれていく内容そのものが本筋となる。二人以外のキャラクターが登場したとしても、あくまでメインとなるのは“二人の世界”なのである。

実写版である本作では、同じ島の学校を卒業している友人同士の飲み会のなかで、中学時代から付き合っているカップルに対して「ノロケを見せつけているのか」という意味のセリフが飛び出す場面があるが、まさに『からかい上手の高木さん』という作品自体が、からかいの関係を通して二人の親密な姿が描かれ続けるという点で、ある種のノロケを延々と見せられている作品だといえるだろう。

だが、それが不思議と嫌味に感じないばかりか、こちらもなぜか幸せな気持ちになってしまうというのが、原作はもちろんシリーズ作品に共通する最大のポイントだといえるのではないか。ただ直接的な愛情表現を繰り返すばかりの作品なら反発が生まれかねないが、そこに“からかい”をめぐる、西片にとっての一種のサスペンスや、高木さんのたくらみに面白いようにはまってしまう顛末が描かれることで、少なくとも本作のファンにとって、ほとんど抵抗感をおぼえずに二人の関係を眺められるのである。

そして、この関係性に特化してそれだけを描いていく内容の作品を生み出したという意味で、『からかい上手の高木さん』は、もはや一つの“発明”とまでいえるものになったのかもしれない。そのように考えると、原作漫画が結末を迎えるにあたって、この絶妙なバランスで成り立っていた均衡を一部崩すことにしたという原作者の選択は、理にかなった試みだといえよう。

二人の一見単純な関係性の裏には、サディズムやマゾヒズムのようなものもあるようにも思えるが、内容を味わっているうちに、そこまで単純化して片付けてしまおうとすると、本質を取り逃がしてしまうのではないかという思いにとらわれるのも正直なところだ。そして、実写映画版である本作のポイントも、おそらくそこにある。ここでは、成長した二人の目を通しながら、子ども時代の関係性とはいったい何だったのかを、それぞれが考え直すような内容が用意されているからである。この『からかい上手の高木さん』という作品自体への一種の分析的な視点があるということが、実写映画版である本作最大の特徴なのではないか。

母校で体育教師になり、大人に成長した西片は、教育実習生としてやはり母校に戻ってきた高木さんに再会できて、嬉しさに包まれる。単純な性格で、すぐに顔や態度に出てしまうところが西片の魅力だが、演じる高橋文哉は、動揺したときの西片のセリフに“とちった”ような言い回しを多用することで、テクニカルに役に近づいている。はっきりとしないことで終わらないラブコメの主人公を体現している西片も、さすがに大人として、自分の感情にけじめをつけようとするのだ。それを後押しするのが、同窓生の中井(鈴木仁)の結婚だったり、元担任だった教頭・田辺先生(江口洋介)のアドバイスだったり、教え子の大関さん(白鳥玉季)の真摯な姿勢だったりする。

対して高木さんの方はどうなのかというと、こちらは不登校の生徒、町田くん(斎藤潤)との関係のなかで、素直な自分の心を述懐することで、本当の自分の気持ちを再確認していく。彼女自身の説明によると、西片へのからかいは、「好き」の言い換えとしての態度であり、自分の気持ちを伝えるために繰り返し続けていたアプローチだったのだという。永野芽郁が体現する、高木さんの余裕を持ったニコニコした表情は、そんな必死さを覆い隠そうとする、彼女なりのポーカーフェイスだという理解ができる。しかし、真っ直ぐで単純な西片は、町田くんにしてみれば「バレバレ」であるところの遠回しな表現をいまだにしっかりと理解することができない。ボクシングでいうところの細かなパンチである「ジャブ」を山のように放ち続け、ノックアウトしきれない日々が積み重なってきたのだ。

このような、恋愛に発展できない関係そのものについては、むしろラブコメ漫画の定型の一つではあるが、それを打破するのが、西片の正直さや決意であるというのは、原作と近しい解釈だといえるだろう。からかいでは敗北し続けてきた西片だが、からかい、からかわれるといった種類のコミュニケーションではない、『からかい上手の高木さん』が描いてきた領域の外で、逆に高木さんをノックアウトしてしまうという、作品内ルールからの逸脱による決着が描かれることになる。物語を終わらせるには、そんな“らしくなさ”を描く必要があるのである。もちろん、いつまでもこの関係が続いていくようなラストもあり得ただろう。しかし、そうせずにキャラクターが成長する姿を見せたいというのが、原作者や本作の作り手たちの誠意の表れだと考えられるのだ。

このシーンは、俳優のやりとりの演技をフィックス(固定撮影)で長回しといった、今泉監督らしい演出で、じっくりと見せていく。この、一見静かではあるが、これまでの関係性が激しく揺り動かされる変化が訪れるクライマックスにおいて、『からかい上手の高木さん』の世界と、今泉力哉監督のこれまでの作家性が合流し、これまで見たことのない世界が生み出されている。まさにこの時間が体験できることこそが、本作の存在理由であることが、深く実感できるのである。

ちなみに、原作では明示されてはいないものの、『からかい上手の高木さん』は、原作者の出身地であるという瀬戸内海の小豆島のイメージが投影されていることが知られている。そのため、本作やドラマ版では、実際に小豆島各所でのロケ撮影がおこなわれている。小豆島は、観光地として人気であるとともに、日本映画史のなかで、とりわけ木下惠介監督が実写映画化したバージョンが不朽の名作となった、『二十四の瞳』(1954年)の舞台でもある。戦争のなかで幸せな日常や、生徒たちの未来が壊されていく状況を見つめ続ける教師の悲痛な思いが観客の心を突く内容だが、本作では、そんな時代には経験できなかっただろう、幸せな日々や時間が映し出されている。『からかい上手の高木さん』自体のテーマとは関係のないことではあるが、小豆島の教育現場という舞台を選んだことが、平和の大事さを必然的に喚起させる部分があることを付け加えておきたい。
(文=小野寺系(k.onodera))

© 株式会社blueprint