スティーヴ・アルビニ、ナイジェル・ゴッドリッチ……名プロデューサーが築いた90'sオルタナティブロックの潮流

1970年代中盤~後半、Ramonesやパティ・スミス、リチャード・ヘルら、ニューヨークを拠点にしていたロックアーティストの影響力が海を渡ってイギリスへ。1977年、Sex Pistolsのデビューアルバム『Never Mind The Bollocks, Here's The Sex Pistols』がヒットしたことをきっかけに、パンクの旋風が巻き起こる。商業的な装飾を削いだプリミティブなバンドサウンドやストレートなメッセージ。ムーブメントとしては短命に終わったパンクだが、その情熱は多くの若者の心に刻まれた。直後、アメリカは戦後最大の不況に見舞われメジャーレーベルが保守化する。資本なんてあてにならない、つまらない。すべてを一括りにはできないが、そういった要因が重なり、80年代初頭に広大な全米の各地でインディーズレーベルやインディペンデントなアーティストの動きが盛んに。やがて各アーティストの地道なツアーや、各地に広がるカレッジラジオの動向をまとめた雑誌『CMJ(カレッジ・メディア・ジャーナル)』の存在などによって、さまざまな音楽スタイルを内包した‟オルタナティブロック“という概念として広まっていく。

それはMTVの台頭によりミュージックビデオ時代に突入し、ショウアップされたポップミュージックやヘアメタルなどが大流行するメインストリームとは別ラインの物語。1987年にはカレッジラジオを湧かせていたR.E.M.が、インディーズレーベル I.R.S. Recordsからリリースした5thアルバム『Document』が全米トップ10入り。90年代に入って状況はさらに大きく変化する。1990年にSonic Youthがユニバーサル ミュージック グループ傘下のGeffen Recordsからメジャーデビュー作『Goo』をリリース。そしてSonic Youthがのちに自らのライブビデオ作品のタイトルで「1991: The Year Punk Broke」と言った1991年が訪れる。『Goo』と同じくGeffen Recordsからリリースされた、Nirvanaの2ndアルバム『Nevermind』が特大ヒット。パンクに発した傍流・オルタナティブロックは、約10年の時を経て世界の主流となった。

結果、オルタナティブロックはコモディティ化することになるわけだが、その輝きはアップデートを続け色褪せることはなかった。現在でもメジャーやインディといったフィールドを問わず、多くのアーティストたちが当時への憧れを公言し、自身の音楽性に採り入れている。また音楽の世界から外に目を向けても、ファッションの変遷からオルタナティブロックのサブジャンルであるグランジというワードが消えることはない。そこには消費のされ方という倫理的な問題もついて回るが、それもまた存在の大きさがゆえ。

では、あれから30年以上経ったオルタナティブロックがレガシーとなり、今でも受け継がれている理由は何なのか。やはり、Nirvana/カート・コバーンという存在はあまりにも圧倒的。長く太い活動を続けるRed Hot Chili PeppersやFoo Fightersの功績も大きいだろう。Sonic Youth、Pixies、BECKにBeastie Boys、Rage Against The Machineら、個々のアーティストやサウンドスタイルに目を向けるとキリがない。さすがは日本の25倍以上の広さを持つアメリカで起こっていたこと。そして、そんなビッグムーブメントの根底にあったのはパンク以降の精神性である。大きな産業の流れとは関係なく、やりたいことを貫く。各地で積み重ねられてきた地道なハードワークの賜物なのだ。

その中で、2024年5月7日、61歳という若さでこの世を去ったレコーディングエンジニア スティーヴ・アルビニの放つ輝きを、追悼記事やファンによるSNS投稿を見ながら再認識した。さらに話を広げると、オルタナティブロックと呼ばれたカルチャーの発展、アーティストのブレイクには、何人ものプロデューサー/エンジニアが寄与していた。前置きが長くなったが、本稿ではそんなプロデューサー/エンジニアの功績にフォーカスを当てていく。

スティーヴ・アルビニ

スティーヴ・アルビニは1981年にBig Blackを結成し、本格的なミュージシャンとしてのキャリアをスタートさせた。ど迫力のマシンビートと錆びた刃物で体を切り裂かれているようなギターノイズ、身の毛もよだつベースの振動、感情むき出しのボーカル。そのパンクとのちのインダストリアルの間にかかったブリッジのようなサウンドは、今を走る多くのインディペンデントなアーティストに影響を与えている。また、ツアーの計画や制作面など、すべてを自分たちだけでコントロールするアティテュードも同様で、80年代後半にレコーディングエンジニアとして活動を始めてからも、スティーヴのスタンスは変わらない。

オルタナティブロック/グランジの隆盛にも好意を示すことなく、高額な印税の支払いを拒否。自身のスタジオを設立してからの料金は一律価格で、プロデューサーという肩書きを嫌いレコーディングエンジニアという職人であることにこだわった。人間が空間で弦を弾き、太鼓を叩き、声を震わせる。そんなフィジカルなエネルギーを生々しく収めたサウンドが、多くのアーティストから支持された。エンジニアとしてのスティーヴ・アルビニの名を高める結果となったPixiesの1stアルバム『Surfer Rosa』(1988年)、ポップに振り切った『Nevermind』の商業的成功後、再びアンダーグラウンドに回帰したNirvanaの3rdアルバム『In Utero』(1993年)、スティーヴのワークスの中でもベストだという声も多いPJ Harveyの2ndアルバム『Rid Of Me』(1993年)などがよく知られるところだが、彼は生涯を通して数千の作品に関わるハードワークをもって、自らのインディペンデントなポリシーを貫いた。

アンドリュー・ウェザオール

ずっとアメリカンオルタナティブの話をしていたところにイギリスのインディーズシーンの話。別の国の別の道で起こっていたことで直接的な因果関係は薄いが、パンク以降のオルタナティブな音楽の変動という括りで、アンドリュー・ウェザオールと、Primal Scream『Screamadelica』(1991年)の存在は欠かせない。

1980年代後半~90年代、Joy DivisionやNew Orderが所属していたマンチェスターのレーベル Factory Recordsが運営していたクラブ・ハシエンダなどを中心に、イギリスの北部ではアメリカ・シカゴからやってきたハウスミュージックが台頭した。ロンドンでは、スペイン・イビサ島で行われていたパーティ、DJ Alfredoのバレアリックと呼ばれたスタイルに刺激を受けたダニー・ランプリングやポール・オークンフォールドらがダンスフロアを沸かせるようになる。そんなクラブの盛り上がりはほどなくしてレイヴへと発展し、イギリス全土の若者を巻き込んだ、セカンドサマーオブラブというムーブメント、アシッドハウスの大流行へと発展。そういったダンスミュージックカルチャーの変遷から受けた影響を自分たちの音楽性に採り入れたロックバンドの作品も数多く生まれた。

その流れを象徴する作品の一つがPrimal Screamの3rdアルバム『Screamadelica』で、そこにプロデューサーとして名を連ねたのがアンドリュー・ウェザオールだ。前年にシングルバージョンがリリースされていた「Loaded」は、Primal Screamの2ndアルバム『Primal Scream』(1989年)収録曲「I’m Losing More Than I’ll Ever Have」のアンドリューによるリミックス。原曲のレイドバックしたサイケデリアと呼応するように、ブレイクビーツよりは緩くベタッとしたビートとパーカッションを貼りつけたことで、酩酊感が増している。原曲のボーカルをなくし、冒頭に配したホーンセクションを軸に展開。The Emotions「I Don‘t Wanna Lose Your Love」のタイトルコーラスとの掛け合わせが高揚感を煽る。そんなPrimal Screamや、Happy Mondays「Hallelujah (Club Mix)」、My Bloody Valentine「Soon (Andrew Weatherall Mix)」など、アンドリューが手掛けたプロデュース作品やリミックス曲がきっかけとなり、多くのロックファンが、ダンスミュージックに魅了されていった。

そして、その後のアンドリューの動きもまた実に興味深い。彼はセカンドサマーオブラブを通じて、その名を揚げたにも関わらず、以降ダンスミュージックのトレンドの真ん中で勝ち馬に乗ることはなく、独自の道を歩む姿勢で、DJとして、ミュージシャン/プロデューサーとして、2020年2月17日にこの世を去るまで活動を続けた。1992年に立ち上げたThe Sabres of Paradiseではハウスやテクノだけでなく、ダブ/レゲエなどさまざまな要素を採り入れながらスリリングなサウンドと美しいアンビエンスを交差させていく。続くTwo Lone Swordsmenでは、初期はよりアブストラクトな方向に舵を切りつつ、後期はロカビリーやパンクにアプローチ。ソロではダンスパンクやサイケデリック、クラウトロックなどの自身のルーツに目を向けたダンスミュージックを自由奔放に繰り広げた。その間、2000年代前半~中盤に起こったロックとダンスミュージックを掛け合わせたムーブメント、2010年代前半のサイケデリックリバイバルなどはおかまいなしの、圧倒的な現場感覚と実験精神。それができたのは、1970年代~80年代のパンク/ニューウェーブやダンスミュージック/エレクトロニックミュージックといったカルチャーをシームレスに渡り歩き、それらの勃興や過渡期、衰退を体験したアンドリューだからこそ。そしてそのオリジナリティはPrimal Screamをはじめ、多くのアーティストやDJに影響を与えた。

ナイジェル・ゴッドリッチ

Radioheadの“第6のメンバー”とも言われるナイジェル・ゴッドリッチは、1971年にロンドンで生まれた。10代の後半からSAE(School of Audio Engineering)でサウンドエンジニアリングについて学び、レコーディングスタジオでの下積みを経て、1994年にThe Stone RosesやXTC、Feltなどのプロデュースで知られていたジョン・レッキーのもとで、Rideの3rdアルバム『Carnival Of Light』にエンジニアとして参加。その後、ナイジェルはこちらもジョンの誘いで、Radioheadの2ndアルバム『The Bends』(1995年)のエンジニアを担当したことがきっかけとなり、続く1997年リリースの3rdアルバム『OK Computer』でバンドとの共同プロデューサーに。以降すべてのRadioheadの作品と関わることになった。

『OK Computer』がリリースされた頃、オルタナティブロックは本来の独自性、荒々しさやローファイな魅力を失い、産業化していた(水面下でのインディーズレーベルの作品はおもしろかったが)。イギリスではブリットポップが終焉へと向かう。そんな1990年代後半~2000年代にかけてのイギリスのインディーズシーンでは『The Bends』や『OK Computer』の、オルタナティブロックともブリットポップとも毛色の異なる、物憂げなメロディラインから色濃く影響を受けた作品が多く出てくる。その最たる例が1999年にリリースされたTravisの2ndアルバム『The Man Who』だ。そこに起用されたプロデューサーの一人はナイジェルだった。

1stアルバム『Good Feeling』(1997年)と比べると、ギターの歪みは抑えられ、より優しいサウンドに。その奥行きは明らかにアップデートされそれぞれの音がクリアに響き、フラン・ヒーリィ(Vo/Gt)のソングライティングセンスと歌心のポテンシャルを一段持ち上げている。『The Bends』と『OK Computer』に関わったナイジェルはまさに適役。結果、『The Man Who』はリリースから約3カ月経って全英1位を獲得した。

そして一躍売れっ子プロデューサーになったナイジェルだが、関わる作品に積極的に介入して意見をぶつけ整然としたサウンドに仕上げるスタイルから、オーバープロデュースという評価も聞かれ、アーティストとぶつかることも少なくなかった。2001年、『Is This It』というデビューアルバム1枚で停滞していたインディーズシーンを一気に好転させたThe Strokesは、続く2ndアルバム『Room On Fire』(2003年)でナイジェルを起用するが、バンドと衝突を繰り返しレコーディングは頓挫。ミニマルなロックンロールサウンドでNYから世界を驚かせた『Is This It』の次なる一手として、豊かなソングライティングセンスを打ち出すにあたり彼を起用する人選まではよかったのかもしれないが、シナジーは生まれなかった。また、ポール・マッカートニーのアルバム『Chaos And Creation In The Backyard』(2005年)では、レジェンド中のレジェンドに臆することなく言いたいことを言う。それに対してポールもかなり頭にきたようだが、最終的にはジョン・レノンを引き合いに出しナイジェルを称賛している。

リック・ルービン

リック・ルービンはさまざまなジャンルのアーティストを世に送り出し、数々の名作に関わってきたプロデューサーだが、その中でオルタナティブロックに目を向けようが向けまいが、まず記すべきはBeastie Boysとの関わりと彼らを世に送り出したことだろう。リックは大学に在学中の1984年にヒップホップとR&B専門のレコードレーベル Def Jam Recordingsをラッセル・シモンズとともに設立。Beastie Boysは同レーベルに所属し、リックのプロデュースのもと1stアルバム『Licensed To Ill』を制作し、1986年にリリース。ラップアルバムとして初の全米1位を獲得した。

実は、リックとBeastie BoysはDef Jam Recordings始動以前からの仲間。1980年代初頭、当時はハードコアパンクバンドだったBeastie Boysのメンバーがよく通っていたダウンタウンのパンク系のクラブでは、ヒップホップのレコードもかかっていたという。そこでヒップホップに惹かれた彼らはライブのMCで韻を踏むようになり、いつしかバンド演奏とMCの割合が半々くらいになっていったらしい。そのときのDJ、すなわちBeastie Boysの初代DJがリックだった。そして彼らはバンドからラップグループへと移行、パンクとヒップホップが融合した当時唯一のスタイルを誇るアルバム『Licensed To Ill』が生まれた。

Beastie Boysはもともとハードコアパンクバンドとはいえ、その頃から折衷的な音楽性を打ち出していたので、いずれヒップホップと出会っていたかもしれないが、パンクのクラブで異ジャンルのヒップホップに振り切り、仲間だったリックの作ったレーベルから作品をリリースしてNo.1ヒットを飛ばしたというフィジカルな逸話はとても魅力的だ。

リックはそんな『Licensed To Ill』収録の「No Sleep Till Brooklyn」のギターパートを、ヘヴィメタルバンドながらDef Jam Recordingsからアルバム『Reign In Blood』(1986年)をリリースしたSlayerのケリー・キング(Gt)に依頼。そしてリックのワークスの中でも最も有名な、Run-D.M.C.とAerosmithのコラボ曲「Walk This Way」(1986年)を実現させるなど、‟ヒップホップ×ロック”の先駆者となった。

1990年代に入り、リックはオルタナティブロックの雄 Red Hot Chili Peppersが、その名を広く世界に知らしめた5thアルバム『Blood Sugar Sex Magik』(1991年)のプロデュースを手掛ける。録音は彼の所有する邸宅にメンバーが泊まり込んで行われた。全米2位を記録したヒットシングル曲「Under The Bridge」の歌詞は、アンソニー・キーディス(Vo)が恥ずかしくて隠していた詩。それを偶然見つけたリックの助言がきっかけになったそう。リックはそれ以降、2011年リリースの『I’m with You』までのすべての作品と、2022年にリリースされた2枚のアルバム『Unlimited Love』『Return of the Dream Canteen』の計9作品に関わった。

また、近年のリックとThe Strokesとの関係性も気になる。2020年リリースのアルバム『The New Abnormal』での仕事で意気投合した両者は、コスタリカの山中で新作に向けたレコーディングセッションを行ったのだそう。稀代のアイデアマン、そして‟持ってる男“、リック・ルービン。アーティストには寛容に接しつつ、音へのこだわりは強い。軋轢が生まれたアーティストとのエピソードもあるが、その人柄が愛され続けるリックはこの先何を仕掛けるのか。まだまだ楽しみだ。

ブッチ・ヴィグ

ブッチ・ヴィグは、Nirvanaの『Nevermind』をはじめ、The Smashing Pumpkins『Gish』(1991年)と『Siamese Dream』(1993年)、Sonic Youth『Dirty』(1992年)など、オルタナティブロック史に輝く名作のプロデュースを手掛けてきた。そして自身もGarbageのドラマーとしてバンドを率い、ヒットを飛ばしている。

Nirvanaが1991年にリリースした『Nevermind』はアンダーグラウンドを沸かせていたグランジの、商業的なヒットを狙った作品だった。そして誰もが予想だにしないほどの結果を獲得。全米、そして世界各国のロックを取り巻く景色を一変させ、メインストリームを席巻した。カート・コバーン(Vo/Gt)の感情の爆発や、サウンドの静と動のコントラストが、サビへと向かう流れの中に収まった、明快でウェルメイドな作品。それでいてあざとさを感じさせない衝動的な強さも大きな魅力なのだが、そのあまりに大きすぎる反響が、スターシステムとは関係のないところから生まれたシーンに、スターシステムとインディペンデントの分断構造を生んでしまう。しかし、カートは自身が祭り上げられることを好まない人間だった。

のちにブッチは、Nirvanaがレコーディング時はクリアでポップなサウンドを受け入れていたと話し、その中で、カートの動きに気を配りながらも、バンドは真摯な姿勢で臨んでいたと好意的な言葉を寄せ、「決して古く聴こえることのない作品」だと『Nevermind』の存在を肯定している(※1)。Nirvanaにとって『Nervermind』の制作は、当時これまでに踏み入れたことのないポップな作品を作るというピュアな挑戦だった。そしてブッチはNirvanaのラウドなサウンドの中から溢れ出る、タイトでポップなセンスを最大限引き出す仕事をした。すべてはその結果だったのだろう。その後ブッチはGarbageでも、シャーリー・マンソン(Vo)というフロントマンを立て、オルタナティブなノイズをシンプルなビートとメロディアスな歌とともに響かせヒット。その後Nirvanaはブッチではなく前述したスティーヴ・アルビニを迎え、アンダーグラウンドに回帰したアルバム『In Utero』を1993年にリリースした。

総括

アンダーグラウンドなものとオーバーグラウンドなもの、その間のグラデーション。そんな単純に割り切れる話ではないが、どのスタンスの中にも美しく見えるものもあれば、そうでないものもある。誰かにとって美しいことは誰かにとって醜いことでもあり、結局のところ真意も事実もそれを制作した当事者にしかわからない。これだけ長い文章を書いておいて元も子もないことを言うが、だからこそおもしろい。そこで交わされる意見や物議、考察によって人もカルチャーも変わっていく。本稿が、もし誰かの役に立つことができれば幸いだ。

(文=TAISHI IWAMI)

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