インタビュー(2)日本サッカー協会・宮本恒靖会長が震えたマラドーナと中3の中田英寿、ガンバ監督の言葉「初めて意識したプロ選手の先にある監督」

宮本恒靖JFA会長が自身のサッカー人生と衝撃を受けた選手、引退後を意識した瞬間を明かす。撮影/原壮史(Sony α‐1)

今年3月、公益法人日本サッカー協会(JFA)の第15代会長に就任した宮本恒靖氏。1977年2月7日生まれの47歳だ。2021年のなかばまでガンバ大阪の監督を務めた後、2022年にJFA理事に選出され、2023年には専務理事としてJFAの実務をリードしてきた。日本サッカーの新時代に向け、宮本新会長はどのようなビジョンを持っているのだろうか。サッカージャーナリスト大住良之が、話を聞いた。

■サッカーを始めたキッカケは「メキシコW杯」

――宮本会長の選手時代、監督時代のことは、サッカーファンなら誰でも知っていると思います。その前の時代のことを少しお聞きします。お生まれは大阪府の富田林市ですね。

「いや、生まれたのは大阪市内なのですが、育ったのが富田林になります」

――宮本会長には、北大阪の高級住宅地育ちというイメージが合うのですが。

「(笑)。富田林は大阪の南のほう、“南河内”と呼ばれる地域です」

――サッカーを始めたキッカケは?

「マラドーナですよ。富田林市立伏山台小学校4年生のとき、当時はソフトボールをやっていたのですが、1986年ワールドカップ(メキシコ大会)のディエゴ・マラドーナを見て、強烈な印象を受け、サッカーをやりたいなと思うようになりました。幸い、翌1987年、5年生になったとき、新しく赴任してきた先生が小学校にサッカーチームをつくってくれたので、始めることができました」

――頭の中は、もちろんマラドーナ。

「そうですね、ドリブルして、シュートして。左利きでないのが残念でしたが(笑)。富田林市立金剛中学校の2年生のときに『第14回全日本選抜中学生大会』の関西選抜に選ばれ、3年のときには、千葉の検見川で行われたU-15日本代表の選考合宿に呼ばれました」

――1997年のU-17世界選手権(現在のFIFA U-17ワールドカップ)が日本で開催されることになり、そのための強化のスタートですね。

「そのとおりです。地元開催の大会だったため、あの当時としては、強化に力が注がれました。そうした時期に巡り合えたのは幸運ですね」

■「体幹の強さ」は当時から群を抜いていたヒデ

――大阪府立生野高校に進学、同時にガンバ大阪のユースに加入したのですね。

「はい、ちょうど1992年で、ガンバのユースがスタートしたときでした」

――生野高校は松原市にありますが、やはり南河内地域で、ガンバ・ユースの練習場に通うのは大阪縦断という形だったのではないですか。

「はい、高校から電車を乗り継いで千里中央まで行き、そこからバス。1時間20分ぐらいかかったでしょうか。月曜日以外は毎日、練習がありました。帰りは1時間半ぐらいかかりましたね。でも大変だなんて、まったく考えませんでした。すぐに慣れましたし、U-17の代表に選ばれるなどもあって、自分が伸びている、夢であるプロに近づいているという実感があり、まったく苦ではありませんでした」

――サッカーにのめりこんだ瞬間は?

「自分があるグループにいて、誰よりもシュートを決めることができるとか、何か秀でたものがあるのではないかと感じられたときですね。富田林市の選抜から、南河内地域の選抜、大阪府の選抜と上がっていくと、うまい選手がいるわけですよ。もう自分がめちゃくちゃ下手だなという感じです。この人たちに追いつくには、このグループで認められるには、どうしたらいいんだろうということの繰り返しでした」

――なるほど。

「この人は何でうまくいくんだろう、この人のフェイントを真似てみよう、蹴り方を真似してみようと、そういうことを繰り返して、自分が少しずつ集団の中で認められる、超えていくということを、サッカーを通して体験することができた。自分の成長を感じられる喜びが、大きなエネルギーになりましたね。もちろん、その次に関西選抜にいくと、またうまい選手がいる。また自分を磨くということの繰り返しですよね」

――ショックを受けた選手はいましたか。

「U-15日本代表の候補になると、財前宣之や中田英寿といった選手がいました。中田はまだ中学3年生でしたが、右45度からゴールの左サイドネットに突き刺さる強いシュートを打っていました。体幹の強さは当時から群を抜いていました」

■U-17世界選手権ベスト8「プロに近づいた」

――「サッカー選手として生きていける」という確信を持ったのは?

「そうですね…。1993年、高2の夏にU-17世界選手権に出場し、ガーナ、イタリア、メキシコ、ナイジェリアと対戦し、ベスト8になりました。「プロに近づいた」と思ったけれど、同時にまだ不安もありました。その後、1995年にガンバ大阪とプロ契約をし、試合にも出ましたが、これでやっていけると思ったのは1年目の最後ごろだったでしょうか」

――19歳を迎える前ですね。

「はい。本当にこれで行けると思ったのは、1997年のFIFAワールドユース選手権(現在のFIFA U-20ワールドカップ、マレーシアで開催)。スペイン、コスタリカ、パラグアイと対戦してグループを突破、ラウンド16ではオーストラリアを下し、準々決勝でガーナに1-2で敗れましたが、ベスト8に入りました。その大会を終えて帰ってきてから、確信に変わったと思います」

――この1997年には、ガンバ大阪でも完全にレギュラーとなりましたね。

「その翌年、1998年にフランス人のフレデリック・アントネッティという人がガンバ大阪の監督に就任したのですが、“ミヤ、おまえは監督をやるようになるよ”と言われたんです。21歳になったばかり、プロ選手としてやっていけると確信できたすぐ後のことで、そのとき、選手としてのキャリアの先に監督があると、初めて意識しましたね。そういうふうに言われて、面白いなと思ったのを覚えています」

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