林家木久扇『木久蔵ラーメン』を中国に出店するため、田中角栄に直談判…激昂した角栄を機嫌よくさせた一言とは

新作ラーメンをお披露目する木久扇

6月15日放送のラジオ番組『TOKYO SPEAKEASY』(TOKYO FM)に落語家の林家木久扇師匠が出演。木久扇師匠がプロデュースした『木久蔵ラーメン』は過去に27店舗のフランチャイズ展開に成功し、海外にも進出していたことを、同番組で明かしていました。

スペインのバルセロナで1年間営業していたものの、大幅な赤字経営だったそうです。赤字の理由について木久扇師匠は「スペインの人は猫舌なんですよ。熱々のものを出しても、しばらく丼を見て、ときどき指を入れて様子を見ているんです。美味しくないじゃないですか。のびちゃって」と分析していました。

筆者も以前、木久扇師匠に『木久蔵ラーメン』の海外進出についてお話を伺っています。

「どこか外国に出そうということになって。やっぱりラーメンと言ったら中国じゃないかと」

木久扇師匠は中国とのパイプがないため、友人の横山やすし師匠に相談します。

「『やっさん、ラーメン屋を中国に出そうと思うんだけど、窓口がわからないんだよ』。そしたらやっさんが『あんたアホやな。日中国交正常化は田中角栄やないか。田中さんに頼んだらええないか』って。『でも僕、田中さんって知らないもん』『わしも知らんがな』って言われて(笑)」

しかし、やすし師匠から電話をかけることをすすめられた木久扇師匠は、国会図書館で調べるなどして連絡先を突き止めます。

「早坂(茂三)さんという第一秘書の方がお出になってね。『ウチは政治をやっている職業で食品は関係ありません』って断られちゃって」

ですが、木久扇師匠はあきらめませんでした。

「僕は、ねばるたちなんで。毎日同じ時間に同じ人間がかければ向こうが覚えるだろうと思って。毎朝10時に田中さんの事務所に電話をかけて」

すると、早川さんの息子さんが『笑点』(日本テレビ系)のファンで、「お父さん、木久蔵さんの話を聞いてやってくれ」と頼んでくれたことで、木久扇師匠は約束を取りつけることに成功します。

「5分だけ時間をくれて。昭和60年の3月に黒紋付を着て田中邸に行き、田中先生にあいさつしました。『はじめまして全国ラーメン党という商売をやっている林家木久蔵でございます。

中国でラーメン店を開きたいんですが窓口がわかりません。閣下は日中国交正常化を果たされた方で、中国に顔が広くていらっしゃいます。どこが窓口を教えていただけませんか』って言ったの。

そしたら田中先生が『日中国交正常化、日中国交正常化……これは私がやりました。やりましたがね、私は中国にラーメンを食べに行ったんじゃないの! 帰れ!』ってすごく怒ったの。

田中先生にしたら、僕が紋付き袴を着て相談があると言うから、すごく大事なことかと思ったら『ラーメン店の開店の窓口を教えてくれ』という話だったから(笑)」

それでも木久扇師匠はあきらめません。

「『田中先生、申し遅れましたがラーメン党というのは党員が1万人おります』。そしたら田中先生が『あんた今、なんて言ったの』『党員が1万人いますと』『そういうことを早く言いなさいよ! その1万人は私の応援をしてくれますか?』って聞かれて。そこから急に機嫌がなおっちゃって、田中先生が『一緒に写真撮りますか?』って(笑)」

そこからは、すぐに中国大使館に連絡してくれて窓口となる機関を紹介してくれたと言います。

「中国に行ったら黒塗りの車で市内を案内してくれて、『ここでお店をおやりになってはどうですか』って何カ所か紹介してくれたんです。でもその土地が1000坪2000坪なんですよ。ホテルを建てるわけじゃないんだから。

僕たちがやろうとしてるのは立ち食いのそば屋で10坪か14坪と思ってて。それで困っちゃってね」

しかし、その後、天安門事件が起こって治安が不安定になったことで、先方から断りがあり、結果的に出店は中止となったのです。しかし、師匠の行動力やチャレンジ精神には感服しました。

筆者も『山下本気うどん』という飲食店をやっていますが、海外には出店できていません。いつか師匠のようにチャレンジできればなと思います。うどんの場合は誰に相談すればいいのかわかりませんが。

インタビューマン山下
1968年、香川県生まれ。1992年、世界のナベアツ(現・桂三度)とジャリズム結成、2011年に解散。同年、オモロー山下に改名し、ピン活動するも2017年に芸人を引退しライターに転身。しかし2021年に芸人に復帰し現在は芸人とライターの二足のわらじで活動している。

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