会社に突然「シニア社員のモチベーション革命」を託された40代男性。悩んだ末に導き出した「斬新な解決策」は…

自動車メーカーで長年活躍してきたNさん

Nさんは地元九州にある大手の自動車メーカーに入社後、転職することなく同じ会社で働いています。地元で安定しているところが会社選定の理由でした。生産管理、原価管理に携わる中でリーマンショック、災害支援などを経験し、波乱万丈の仕事人生を歩んできました。

最初は新型車を取り扱う仕事だったので、他部門や本社との日程調整などで多くの部署に関わることになり、随分と調整能力が鍛えられたそうです。また災害や経済変動の影響で販売が低迷した時期は、予算のやりくりや収益対策に頭を悩ませてきました。

人生の転機になった異動と新プロジェクトへの挑戦

入社して25年目に、Nさんに大きな転機が訪れます。あるプロジェクトを担当したことをきっかけに、人事部へ異動となったのです。

始まりは、本社の経営陣に自社の経営上の数字や課題を提案することになり、担当者として白羽の矢が立ったことでした。生産の現場と会計業務に精通していたので適任だったのです。

Nさんは突然のことで戸惑いましたが、何とか短期間でこなすことができました。その仕事が人事部門に関わっていたことから、そのまま人事部に異動することになります。

また、異動後はすぐに新しい挑戦が始まりました。当時、人事部では「会社のシニア社員の活性化」が大きな課題になっており、今度はその改善を頼まれたのです。会社としてもシニア社員の人数が増加してきたので、いつか取り組まないといけない案件でした。

着任にあたって、Nさんが当時の副社長から言われた言葉があります。

「役職を離れた社員は長年会社のために尽くしてきてくれた人たちなので、リスペクトして接してほしい」

Nさんはその時47歳。その言葉の意味を自分事として考えられませんでした。

最大の課題に直面して導き出した「新制度」

このプロジェクトの課題は、役職を外れたシニア社員が関連会社へ出向する際に、「それでは元の会社に戻れない」と嫌がる人が多かったことでした。また、出向すると給与形態が出向先に準じて下がることも問題でした。そのため、シニア社員のモチベーションも出向先でのパフォーマンスも下がってしまっていたのです。

Nさんは大変悩みましたが、ここである解決策が浮かびます。その解決策とは、「あくまで所属は今の会社で、兼業という形で週2日程度外部の会社に行く」という兼業制度を作ることにしたのです。そうすることで給与水準は保たれ、安心して兼業先で力を発揮できるようになると考えました。

Nさんが提案した兼業制度は社内でも承認され、とうとうスタートすることになりました。

この制度では、まず兼業を受け入れてくれる会社を見つけることが課題です。そのためには兼業先の会社にとってのメリットを説明する必要があり、Nさんは兼業先でシニア社員が専門性を発揮して問題解決できることアピールしようと考えました。そこで、Nさんは直接兼業先の会社に訪問し、どんな人材を必要としているのか聞き出すことから始めました。

会社のニーズを聞き出すために、社長と現場の責任者から課題や困りごとを聞き出すと、面白いことに、Nさんは誰よりもその会社のことが分かるようになってきました。兼業先の会社の人たちにとっても、自分達では気付いていないことがNさんと話すうちに明確になることもあったようです。

●そしてこの後、Nさんの“ある気づき”をきっかけに、制度の利用者が爆増することに……。ヒントは兼業先に企業との対話の中に隠されていました。後編【「まさに仲人」シニア社員を大活躍に導いた40代男性が、波乱万丈な仕事人生で感じた「最大のやりがい」】で詳説します。

髙橋 伸典/セカンドキャリアコンサルタント・モチベーション総合研究所代表・東京定年男女の会主宰

1957年生まれ。57歳で早期退職するも、多くのつまずき、苦労を経験する。しかし試行錯誤を重ねることで乗り越え、リスクなく独立する道をつかみ取る。東京都主催の東京セカンドキャリア塾、各自治体などでセミナーを行う。雑誌やウェブメディアでは、セカンドキャリアに関する寄稿の実績多数。著書に「定年1年目の教科書」(日本能率協会マネジメントセンター)がある。

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