ソウルの明洞にあるMETCHAというカフェに入った。明洞では人気のカフェだという。仕事の打ち合わせがあり、1階で待ち合わせた。そこで注文し、飲み物を受けとって2階か3階にあがるスタイルだった。
約束の時刻より少し早く店に入った。僕はカウンターに列をつくって注文する人たちをぼんやり眺めていた。
■明洞のカフェ、レトロな石臼で挽いたメニューが人気
注文カウンターの脇に抹茶をつくる機械があった。どうも原理は石臼のようだった。上下の石が電動でまわっている。上から入れた茶葉は、擦れあうようにまわる上下の石の間で粉砕され、抹茶になったお茶が下の受け皿に溜まるシステムだった。本来の石臼をカフェ風にアレンジしていた。
左手を見ると、そこにも石臼があった。こちらではコーヒーを粉状にしていた。石臼をカフェ風に改造したコーヒーミルである。
知人が現れ、僕らは抹茶ミルクティーを頼んだ。6万5000ウォン(約740円)だった。
静かな3階にあがった。
「ここはなんでも石臼で挽くんだ」
「それが売りだからね。昔、韓国ではこの石臼でなんでも挽いて食材にしていたんだ。どんぐりとかも挽いていたらしい。いまの韓国人は昔風にすると、なんでも体にいいと思う傾向がある。それでこの店も人気なんですよ」
どんぐり……。
少し調べてみると、どんぐりを食べるのは、日本、韓国、中国のエリアのようだ。縄文時代の日本人の主食はどんぐりだったのでは……という説まである。
しかし日本では、どんぐりを食べる習慣はぷつりと切れてしまっている。なかには、「どんぐりは毒がある」と思っている人もいるほどだ。
韓国と中国は、また別の文脈でどんぐりは語られている。
以前、中国の有名な詩人、杜甫の話を読んだことがある。杜甫は唐の時代の下級役人で生活には苦労した。ソグド人が唐に攻め入った安禄山の乱では捕らえられ、幽閉という憂き目を味わってもいる。安禄山の乱が終わり、役人に復帰するが相変わらず生活は苦しい。最後には役人を辞め、妻や子供を連れて中国内を転々とする暮らしに陥っていく。そのときの記述に、「どんぐりを食べて飢えをしのいだ」というものがあった。
韓国でも同じような話を耳にしたことがある。本当に貧しいとき、どんぐりを食べてしのいだ……と。
つまり韓国や中国では、どんぐりは貧困を表す常套句のような気がする。人間、食べ物がなければ、さまざまな物を口にする。おそらくそれは世界共通で、森に入ればどんぐりは落ちているから、生き延びるサバイバルフードのように食べる文化はどこにでもあった気がする。
逆に考えれば、食べ物があればどんぐりには手を出さないということにもなる。理由は単純で、どんぐりはおいしくないのだ。苦みを抜くのも大変だという。日本はそれだけ食糧に恵まれていたということなのだろうか。
だいぶ前になるが、僕は韓国の束草(ソクチョ)の宿でどんぐりの料理を出されたことがあった。谷あいの民宿風の宿で、山の珍しい料理といった雰囲気で出された。宿の主人がかたことの日本で説明してくれた。
「韓国では貧しい時代にどんぐりを食べました。石臼で擦って粉にしてね。どんぐりは栗のようにおいしくないから、いろいろと味をつけないと料理にならないんですが」
宿の主人は台所にあった石臼を見せてくれた。石がむき出しの素朴なタイプだった。
そこで食べたどんぐり料理は味も覚えていない。おそらく記憶に残らないほどのものだったのだろう。
しかし知人に訊くと、ソウルにはどんぐり料理の店があるという。健康食志向の店で、MATCHAで耳にした、「昔の食べ物は体にいい」という韓国人の発想が人気を支えているようだった。
その店に行ってみようと思った。すると別の知人がこういった。
「いまのソウルではどんぐりが話題ですよ。そのきっかけは『となりのトトロ』。日本人が連日、そのカフェの前で列をつくっているそうです」
ソウルではどんぐりはそんな世界に入ってきているのか。はたしてそのカフェはどんなカフェなのだろうか。