突然消えた愛車「遊ばせない方がいい」 先輩が母に進言…プロ入りへ導いた後の大物社長

ヤクルトなどでプレーした伊勢孝夫氏【写真:山口真司】

現役時代に「大明神」の異名…伊勢孝夫氏は高校でバイクに夢中になった

ニックネームは「伊勢大明神」。野球評論家の伊勢孝夫氏は近鉄、ヤクルトでの現役時代、勝負強い打撃で活躍した。引退後はヤクルト、広島、近鉄、巨人などで指導者として多くの選手を育成。ヤクルト・野村克也監督からID野球を徹底的に叩き込まれた辣腕コーチとして知られている。現在も大阪観光大硬式野球部特別アドバイザーを務めるが、その野球人生は高校時代に自身の愛車・250ccのバイクが突然、消えてから本格化したという。

伊勢氏は1944年12月18日生まれ、兵庫・三田市で育った。「高校2年(1961年)の時、母親に250ccのバイクを欲しいって頼んで買ってもらっていたんですけど、ある日ね、それがなくなっていたんですよ。母親がバイクを売ってしまっていたんです。それからですね。性根を入れて野球をやり始めたのは」。三田小の時から少年野球チームに入り、三田中、三田高(現・三田学園)でも野球部に所属していたが、それまでは真剣さが今ひとつ足りなかったそうだ。

「親父が野球好きだったので、小学校に入る前から休みのたびに野球に連れていかれて私自身も野球が好きになったんですけど、高校ではバイクを乗り回していましたしね」。野球部でありながら、そんな調子。それこそプロ野球の世界なんて考えてもいなかった時期だ。それが野球の道へ軌道修正されたのは、3歳年上の先輩が伊勢氏の母親に「野球の素質があるからバイクで遊ばせない方がいい」と進言したから。それでバイクを強制的に取り上げられたのだった。

その先輩は現在、ビルメンテナンス事業などで大手の日本管財ホールディングス株式会社会長の福田武氏。「私が少年野球に入った時、中学生だった福田さんがコーチでした。よく見てもらっていたんですよ。私が高校の時も大学生の福田さんが夏休みとかにコーチで来られたこともありましたしね。その人が私の家に来て母親にそういう話をされて……。私も『野球と向き合え!』と言われました」。

それをきっかけに伊勢氏は野球に没頭した。三田高3年の1962年夏の兵庫大会では、2回戦の津名戦で16奪三振の力投で3-0勝利。全員から三振を奪った。一躍、注目選手になったが、3回戦で報徳学園に0-1で敗戦。「甲子園球場での試合だったんですけど、台風が接近している最中で初回に普通のライトフライが風にあおられて、ライトが捕れず三塁打にしてしまって1点取られたんです」。その1点で敗れ、高校野球は終わりとなった。

大学進学は取りやめ、銀行に就職内定も…高3の12月に近鉄から誘い

次の進路は当初、大学を考えていたが、やめたという。「近大の練習参加に行って(松山商の)山下律夫(元大洋、クラウン・西武、南海投手)と一緒にブルペンで投げたんですけど、あの当時はねぇ……。今は絶対駄目ですよ、絶対できないけど、あの頃はボコボコでしょ。そういうのを見て、こんな恐ろしいところに行ったら……と。大学はどこもそうなんだろうって思ったんですよ」。山下は近大に進学したが、伊勢氏の大学への熱は一気に冷めた。

「東京の方の大学からもスポーツ推薦の話があったけど、母親もそんな遠いところにやりたくないということだったし、私もそこまでして勉強しながら野球をやりたいとは思わなかったんです」。そこで浮上したのが池田銀行だ。「社会人は小西酒造の夏の洲本でのキャンプに参加しましたが、親父の仕事の関係で取引があった池田銀行の試験を受けることになった。テストは全然できなかったんですが、合格したんですよ」。

伊勢氏は「銀行で人様のお金を数える仕事とかが自分にできるわけない」と思っていたそうだが、話はそこに就職の方向で進んでいったという。そんな時だ。「12月になって、近鉄スカウトの江田(孝)さんが家に来てくれたんです」。まだドラフト制度がない時代。思わぬプロからの誘いにまた流れが変わった。「勉強も何もしないで野球だけやればいいやないか、大学に行かせたと思って4年間、面倒見るわって親も言ってくれて、それで近鉄に行くことにしたんです」。

振り返れば、先輩の福田氏の母への進言がなかったら、バイクを乗り回して高校時代が終わっていたかもしれないし、もしも、近鉄・江田スカウトが家に来なかったら「銀行に入って準硬式野球をやっていたでしょうね」。近鉄に入団していなければ、名将・三原脩氏に「伊勢大明神」のニックネームをつけられることもなかっただろう。「人生ちょっとしたことでねぇ……」と伊勢氏はしみじみと話した。(山口真司 / Shinji Yamaguchi)

© 株式会社Creative2