サメは我々のすぐそばに Netflix『セーヌ川の水面の下に』で味わう衝撃の「はあ?」体験

1895年12月28日。パリのカプシーヌ通りにあるグラン・カフェ地下のサロン・ナンディアンでリュミエール兄弟によるシネマトグラフ『工場の出口』が上映された。「映画誕生」の瞬間である。1896年1月には『ラ・シオタ駅への列車の到着』が上映され映画原始の驚愕を観客に刻み付けた。それから128年の時が経った。かつてシネマトグラフが上映されたカプシーヌ通りからそれほど離れていない距離にあるセーヌ川を舞台にしたサメ映画が、Netflixで配信された。

ザヴィエ・ジャン監督『セーヌ川の水面の下に』である。連日Netflixの「今日の映画TOP10」にランクインするなど大きな話題を集める本作だが、全くもってそれにふさわしいエラい内容になっていた。世の中にはとんでもない映画があるし、それがサメ映画であることは珍しくないのかもしれない。しかしまあサメ映画であることを加味してもなお本当に凄いことになっているので、少しでも気になっている人は今すぐこの記事を閉じて本作をNetflixで再生してほしい。ネタバレを踏む前に「なんかすごい映画があるらしいぞ」というぼんやりした情報をそのままに観てほしい。とはいえ忙しい現代社会、そうやすやすと映画を再生する気にならない時もあるだろう。そんなあなたにパリ五輪の記念碑的傑作『セーヌ川の水面の下に』の魅力をご紹介。

セーヌ川に巨大サメが出現! しかし為政者は取り合わず……。『セーヌ川の水面の下に』の筋書はサメ映画の原点にして頂点『ジョーズ』(1975年)をリスペクトしたような内容だ。リアリティラインも低く、サメ自体は巨大化した突然変異シャークであるものの頭が分裂しなければ空を飛んだりもしない。『ジョーズ』のアミティ島では海開きを目前に控えていたように、本作ではセーヌ川で世界トライアスロン大会を目前に控えている。銭勘定と責任の所在ばかり気にする為政者のどうしようもなさは両作共に共通しており、主人公のトラウマに寄り添った丁寧なシナリオと為政者のしょうもなさが上質な緊張感を生み出している。

また、海洋学者である本作の主人公は海洋の生態系の保護を訴えており、物語も人類の愚の集大成である太平洋ゴミベルトから始まるなど物語の骨子に「環境問題」をテーマとして据えていることがわかる。上質な脚本に確固たるテーマ。まるでコース料理の前菜みたいな丁寧さだが、ここでひとつ断言しておきたい。本作は人が気前よく食べられるわんぱくなサメ映画であるということを。

サメ映画はなにを以てしてサメ映画とするか? それは人によって違うだろうが、なんであれ人がたくさん食べられるに越したことはない。本作でメインシャークを務める突然変異巨大サメ「リリス」は子育てのためにセーヌ川に繋がるカタコンベを住処にしている。薄暗いカタコンベで悠々と泳ぐサメは容赦なく恐ろしく、美しい。おまけに人も食べる。このミッドポイントで炸裂する食人シーンは過激な活動家と警察の衝突で緊張感を高め、その果てに発生する。今までの抑えたトーンの演出と作劇を裏切るかのような大殺戮ぶりはコース料理のメインディッシュにビッグマックを出されたようなサプライズ感がある。ジャンク感極まりないゴアは健康優良な作劇に慣れきった脳を問答無用で喜ばせ、荘厳なカタコンベで発生する阿鼻叫喚の地獄は一種のカタルシスさえある。

ただこの映画は丁寧な作劇に砂をかけてゴアをやる、という斜に構えたようなサメ映画ではない。あくまで物語の骨子には環境問題があり、それに則りつつ人がたくさん食べられるという極上のパーティーがあるだけだ。『ジョーズ』をなぞらえた内容もさることながら、サメ映画に対する真摯なリスペクトーーつまり「人が食べられるシーンは常に全力でやるべきだ」という強固な意志がうかがえる。

問題はそれすらも置き去りにする衝撃の展開があることだが……。

本記事はあくまで『セーヌ川の水面の下に』未見の人に向けられたものなため、具体的な内容をここに記すことはできない。でも、とんでもないシーンがあることだけは言わせてほしい。本当にエラいことになるシーンがある。映画を観ていて思わず「はあ?」と口に出すほどの衝撃を味わえるのは名作を観る以上に限られた体験であり、貴重なものだ。また『セーヌ川の水面の下に』の例のシーンはそれ自体決して浮足立ったものではなく、「環境問題」という一貫したテーマのもとに成り立っている。だからOKというわけではないが、あらゆるものを置き去りにするような(しかして一貫したテーマを基にした)展開に茫然自失となるか、あるいは大興奮するのは間違いない。

リュミエール兄弟がサロン・ナンディアンで上映した原始の映画のひとつとして知られる『ラ・シオタ駅への列車の到着』を観た観客は、列車がスクリーンから飛び出してくるような錯覚に襲われ、思わず逃げ出したのだという。列車が駅のホームへと到着するシンプルな映像は「列車が我々に迫り、押しつぶそうとしてくる」という衝撃を観客に与えた。ただの俗説に過ぎないという意見があることに留意しつつ、この映画史の1ページ目は映画の核心を突いているように思う。現実に肉薄し、時に飛び越え、そして観客を驚愕させる。映画とは常に迫るものであったのだ。

世界ではじめてシネマトグラフが上映された国のサメ映画『セーヌ川の水面の下に』のラストはスクリーンを越えて現実の危機として我々に迫るものがある。確かにとんでもない映画であるが、環境問題とサメ映画に対する実直な作劇によって衝撃がこちらの世界に肉薄しているのだ。サメは我々のすぐそばにいる。そのことを決して忘れてはならない。

(文=2号)

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