「CERNのロシア追放はプーチンを利する」 科学者たちの懸念

2019年6月10日、ジュネーブの欧州合同原子核研究機関(CERN)での会談中に握手するロシアのドミトリー・メドベージェフ元首相(右)とCERNのファビオラ・ジアノッティ事務局長 (KEYSTONE)

ロシアはジュネーブに構える欧州合同原子核研究機関(CERN)の研究に大きく貢献してきたが、ウクライナ侵攻を機に協力関係は途絶えた。科学者たちは、これがむしろウクライナ侵攻を後押しする危険な前例になると危惧する。

「世界は紛争だらけだ。科学的な協力関係が細れば、CERNの現在・将来の共同研究に支障をきたすだろう」。ドイツ電子シンクロトロン(DESY)のハンネス・ユング名誉教授はこう警告する。CERNからのロシア追放は、他の国との付き合い方の前例になるものだとみる。

CERN理事会は2022年6月、ロシア・ベラルーシとの全ての協力協定を2024年で解消する方針を決定。翌年12月には「ウクライナへの軍事侵攻が続いている」ことを踏まえ、ベラルーシとの協力協定は今月24日、ロシアとは11月30日に終了すると決めた。ロシア外務省は今年3月、CERNの決定に対し「政治的・差別的で容認できない」と反発した。

国際的科学研究から特定の国を排除したのは、CERN史上初めてのことだ。ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争時、制裁としてユーゴスラビアとの協力を一時的に停止したことはあった。

CERNとロシアの研究協力関係は60年近く前に始まった。冷戦真っただ中の1960年代、CERNは初めてソ連の研究所と協定を締結した。1991年にロシア連邦はCERNのオブザーバー資格を得た。以来、ロシアはCERNで行われる実験に財政的にも科学的にも大きく貢献してきた。

科学研究への影響

CERNによると、ロシア・ベラルーシの追放により年間200万フラン(約3億5000万円)を超える財源を失った。

ロシアは2022年までの拠出金と2023年分の一部を支払っていた。素粒子物理学の研究施設として世界最大・最強の「大型ハドロン衝突型加速器(LHC)」の建設にロシアも貢献した。過去30年のLHC実験の総費用15億フランのうち、4.5%以上をロシアが負担した計算だ。

CERNの中期計画(2024~28年)は、ロシア追放により高輝度LHCへの更新予算に生じた穴を埋めるために、4000万フランを追加調達する必要があると試算。予算だけでなく、CERNで行われるさまざまな実験からロシア人研究員やノウハウなども失われ、これら全てがCERNの運営に影響を与えると指摘した。

CERNと長年協業してきたユング氏は、ロシアの追放には他のリスクも潜むと指摘する。CERNから排除されたロシア人科学者が、路頭に迷ってロシアの軍事研究に加わる可能性があるという。ロシアがCERNに拠出してきた資金が軍事費に充てられ、ウクライナ侵攻の激化につながる恐れもある。

「ロシアがCERNでの実験や研究に金銭的・知的資源を費やし続けた方が重要で建設的だっただろう。このままではウクライナを救うことにならない」

架け橋を失う

ユング氏と他の多くの科学者は、さまざまな国の人々を結び付け、科学界の架け橋となるために設立されたCERNの将来を憂う。

ユング氏は学生だった1980年代、西ドイツからCERNに渡った。その頃から、東西に分断された国々の科学者たちが交流と対話を重ねるCERNの空気に魅了された。CERNの検出器技術の一部には、ロシア海軍の弾殻を溶かしたものが再利用されたという。

「CERNは武器を平和の道具に変えた。そんなことはもう起こらなくなってしまう」

ロシアとベラルーシの科学者への影響

CERNとの協力協定が切れるまでに、CERNと関係のあるロシアとベラルーシの研究機関に所属する科学者たちはCERN関連の研究活動を中止しなければならない。CERNによると、対象者は約500人に上る。

その1人、フョードル・ラトニコフ氏(61)は「悲しい状況だ」と肩を落とす。「善良な人々との関係を断ち切るべきではない」。ロシア政府が出資する高等経済学院(HSE大学)に所属するラトニコフ氏は20年近くCERNの実験に取り組んできたが、今はCERNでの将来にあまり希望を抱いていない。

「もしロシアで軍事研究をするよう強制されたら、引退するつもりだ」と話す。一方で、CERNとの協力方法がまだ何かあるという期待も捨てきれずにいる。

核研究に就いていた同僚研究者の多くは既に、国際協力を続けるために西側諸国の研究機関に移籍した。だがラトニコフ氏は祖国ロシアに残りたいという。米国で数年間研究したあと、2016年からロシアに戻った。「自分の国で研究プロジェクトを進めるためにロシアに戻った。母の面倒も見なければならない」

政治が科学に勝つ

CERNは、ロシア・ベラルーシとの協力を終了するという理事会決定についてコメントを拒否した。広報のアルノー・マルソリエ氏は「加盟国が決めたことであり、CERNはそれに従うだけなのでコメントできない」と述べた。CERN理事会は加盟23カ国それぞれの政府代表と科学者代表で構成され、運営は理事会が投票で決めた決議に拘束される。加盟国はロシアや日本、米国などオブザーバー国よりも拠出額が大きく、例えばスイスは年間約4000万フランを拠出する。最大の拠出国はドイツ(年2億2000万フラン)だ。

元CERN職員のマウリツィオ・ボナ氏は、理事会は加盟国の政治的利益を代表するものの、これまでは科学的利益のみに基づいて運営してきたと話す。「CERNは科学に取り組み、異文化間の対話と平和を促進するために設立された。政治的な圧力はなかった。だが2022年、突如として政治が科学の利益と原則に勝るようになった」

ボナ氏はCERNで加速器の設計・開発に携わった後、前事務局長の顧問として国際機関との渉外に当たった。退職した2022年3月、CERNはロシア・ベラルーシとの協力停止を決定したところだった。ボナ氏は、この決定は彼自身とCERN経験者全員に驚きとショックを与えたと振り返る。

「40年間、CERNは私の故郷だった。組織運営は政治的圧力を受けていないと固く信じ、私たち科学者はそれを誇りに思っていた。決断には心底がっかりした」

「プーチン大統領の夢を実現させた」

欧州委員会の組織Science4Peaceのメンバーで元CERN職員のロシア人物理学者アンドレイ・ロストフツェフ氏は、ロシアとベラルーシの追放は純粋に政治的な決断だったとみる。「科学の進歩は政治に屈服した」

あるCERN関係者によると、昨年12月15日に行われた非公開投票では、大半の代表が自国政府からの指示のもとに投票した。オンラインメディア「ジュネーブ・オブザーバー」によると、23カ国中17カ国が協定更新に反対票を投じ、ハンガリー、イタリア、セルビア、スイスは棄権した。スイス連邦教育研究革新事務局(SBFI/SEFRI)はswissinfo.chの取材に対し、秘密保持義務を理由に棄権理由に関するコメントを拒否した。

ロストフツェフ氏は、ロシア追放にさほど抵抗がなかったのは、同国が素粒子加速器・建設費用を既に拠出していたためとみる。フランスにある国際熱核融合実験炉(ITER)などの他の国際科学プロジェクトはなおロシアに大きく依存しており、簡単に追放できないという事情がある。

同氏はロシア科学界による盗用の告発サイト「dissernet.org」を運営する。CERNからのロシア追放は、プーチン大統領を利することになるとみる。「プーチンはこれを、ロシア国民に周辺国を敵と認識させるための議論として利用するだろう」。そうなれば、プーチン氏は科学予算を削って戦費を調達するという決断を自ら下す必要がなくなる。

「CERNはプーチンの夢を現実のものにした」

編集:Veronica De Vore/ds、独語からの翻訳:ムートゥ朋子、校正:大野瑠衣子

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