【コラム・天風録】藤井聡太を泣かせた男

 「藤井を泣かせた男」は何人もいるらしい。将棋界で前人未到の八冠を成し遂げた藤井聡太さんも、少年時代は大の泣き虫だった。負けず嫌いで人目をはばからず、将棋盤に覆いかぶさった。悔し涙が、天下無双の肥やしとなったのだろう▲その人を「泣かせた男」、いや正しくは「泣かせた男の子」で同い年の一人が再び立ちはだかった。八冠の一つ、叡王(えいおう)位を奪い取った伊藤匠七段である。プロ入り後、対藤井戦はこれまで10敗1分けと泣かされてきた▲勝利の弁がよかった。「運が良かったかなと思います」。もちろん謙遜だろう。運だけで勝てるような世界ではあるまい。互角に渡り合えた手応えがあればこその言葉に違いない▲世の中は桜の下の相撲かな(木戸孝允)。負けて転がされ、あおむけに横たわらないと見えてこない景色がある。負けて、勝つ。黒星続きの中でもがいて、考えた時間が伊藤叡王の辛抱強さを支えているのではないか▲切磋琢磨(せっさたくま)を地で行くようなライバルを得て、藤井七冠にも張り合いが出るかもしれない。あまりの強さから、このところは新聞でもテレビでも扱いが少々寂しかった。初の失冠に心で泣いて、次の対局が見ものである。

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