新庄剛志に憧れ続けた元甲子園球児シンガーHARTY、名前から「E」を取った理由は夏の日のトラウマ

日本ハム・新庄剛志監督の公式応援ソングなどを歌うシンガーソングライター・HARTYさんの半生は、不思議な巡り合わせと縁に満ちています。小学校時代に初めて訪れた甲子園で新庄のホームランを見てから新庄に憧れ続け、「新庄になりたい」ともがき苦しんだ不屈のアーティスト。数奇な半生を振り返るインタビュー前編をお届けします。

【ゲスト】

シンガーソングライター

HARTY

1985年5月23日、大阪府岸和田市出身。本名・花田裕一郎。小学校1年時に初めて訪れた甲子園球場で阪神・新庄剛志のプロ初本塁打を目の当たりにし、新庄ファンに。岸和田イーグレッツで本格的に野球を始め、中学時代は岸和田シニアでプレー。香川西高時代は甲子園に出場し、羽衣学園大でも野球を続けたが、ケガのため2年で中退して音楽の道に進む。アーティストとして活動していた時、新庄剛志氏と運命的な出会いを果たし、2020年に新庄剛志プロデュース公認応援歌『%1』をリリース。ほかにも北海道日本ハムファイターズ公認応援ソング『We Love FIGHTERS』や関メディベースボール学院応援ソング『夢追いかけて』などを歌う。

■父親に連れられた初めての甲子園で見た新庄のプロ1号

司会:野球を始めたきっかけから教えてください。

HARTY:小学校1年生の時に塗装業をやっていた父親の軽トラックに乗せられて甲子園球場に行ったんです。一塁側のアルプススタンドに座った週間、レフトスタンドに大飛球が飛んで、球場が大歓声に包まれました。それが、まだ背番号63だった新庄剛志さんのプロ初本塁打(1992年5月26日、大洋・有働克也から)でした。その時、「お父さん、僕はあの人になりたい」って言ったのがきっかけです。

司会:それまでは野球に興味はなかったんですか?

HARTY:全く興味なかったですし、野球をあまり分かってなかったです。

司会:その後すぐ野球チームに入ったと?

HARTY:それが、野球をやりたいって言ったら、父親が翌日グローブを買ってきてくれたんですが、子供用の小さくて柔らかいグローブで、近所の公園に行って父親が硬球でノックを打ったりとか、2年ぐらいマンツーマンでスパルタ指導されました。父親は野球経験はなくサッカー部だったらしいですが、本当に昔気質の男って感じの厳しい人で、硬球が左目を直撃してパンダみたいに黒く腫れ上がったこともありました。

司会:嫌にならなかったんですか?

HARTY:左目が腫れた時は学校に行くのが嫌でやめたいと思いましたが、新庄さんになりたいという気持ちが強かったんでしょう。父親がいない時は独りで川に向かって石を打って打撃練習をしていました。それで小学校3年の時に地元の軟式野球チーム「岸和田イーグレッツ」に入ったんです。

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司会:岸和田イーグレッツでは活躍したんですか?

HARTY:新庄さんと同じセンターを守りたかったんですけど、ピッチャーになってずっとエースで4番でした。父親の2年間の指導が活きたんでしょうね。僕の4つ下に前田健太投手がいました。

司会:凄いですね。

HARTY:ただ、新庄さんになりたいと思う一方で、小学校の頃、いとこのお姉ちゃんにX JAPANのビデオを見せられて、格好いい、こうなりたいっていうのが同時期に芽生えたんです。地元の同級生でバンドを組んで僕はドラムで、いとこのお姉ちゃんがボーカル、友達がギターで、家にドラムセットがあって、僕の部屋は音楽室みたいになってました。オフの時は家でドラムを叩いてましたね。

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司会:中学に進んでからは?

HARTY:清原和博さんがOBの岸和田シニアに入りました。プロ野球選手になるなら岸和田シニアっていう父のアドバイスもありました。

司会:硬式チームは違いましたか?

HARTY:小学校でやってた野球とは全く違いました。指導方法、挨拶、マナー、グラウンド整備ひとつとっても厳しかったです。

司会:いつからレギュラーになったんですか?

HARTY:1年生の時から3年生の試合にも出てましたし、2年生からレギュラーでした。岸和田シニアに入ってからキャッチャーに抜擢されたんです。それまでピッチャーしかやったことがなかったんですが、肩が強かったんで3年間キャッチャーで、盗塁もほぼされたことがなかったです。それと3年生の1年間の公式戦打率が5割を超えていて、その時点では清原さんと僕だけだったんですよ。だから、清原以来の5割バッターと言われて岸和田では有名でした。

司会:じゃあ、いろいろな高校から誘いがあったんですか?

HARTY:新庄さんになるのが目標だったんで甲子園は通過点だと思ってました。その中では智弁和歌山に行きたかったんですが、当時の髙嶋仁監督が岸和田のグラウンドまで見に来てくださったものの、かすりもしませんでした。そのほか、広島の広陵や山梨の日本航空からも来てましたね。

司会:なぜ香川西を選んだんですか?

HARTY:中3最後の全国大会の大阪予選で大活躍したんです。その試合を香川西高校の梶岡監督が見に来られてて「あの選手が欲しい」となったんです。学費免除とか、寮費も不要とか、待遇が一番良かったのと、練習を見に行ったら楽そうだったのもあって決めました。

司会:なるほど。

HARTY:でも、実は高校を決める前に野球をやめて歌手になろうかなと思って、新庄剛志かX JAPANか、ちょっと気持ちが揺らいだんですよ。それで父親に東京に音楽を勉強しに行きたいって言ったら顔面にグーパンチが飛んできました。高校野球は今しかできないけど、音楽は高校野球が終わってからもできるみたいなことを言われたのを覚えてます。

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■香川西高時代、監督にビーンボールで半年間、草むしりの日々

司会:香川西高校に進学して初めての寮生活はどうでしたか?

HARTY:地獄でした(笑)。100億円あげるからもう1回やりなさいって言われてもできないです。いや、もらえないです。

司会:そんなに厳しかったんですか?

HARTY:15歳で初めて見知らぬ土地に行ったら無人駅で、山に囲まれてコンビニもないような場所だったんです。寮は3畳くらいの狭い部屋に2段ベッドだけ置かれてて、2人で住んでいました。小さい窓から監督や寮監に覗かれるんです。上級生から洗濯してこい、ご飯温めてこい、何か買ってこいとか言われて、凄い所に来たなって感じたのを覚えてます。練習もめちゃくちゃ厳しかったです。

司会:中学の時は楽そうに見えたんですよね?

HARTY:あれはフェイクでした(笑)。入ってもらうために楽な練習に見せたのか、調整日だったのか。いや、でも調整日なんかなかったですね。

司会:監督さんの方針だったんですか?

HARTY:僕が1年生の時に梶岡監督から岩上昌由監督に代わったんですが、礼儀や人としての在り方まで全てにおいて厳しい方でした。お父さんやお母さんも監督の前ではみんなピリッとしてました。

司会:最も印象に残っていることは?

HARTY:2年生で正捕手に抜擢されたんですが、新チームになってからセカンドにコンバートされたんです。中学校でキャッチャーになって、せっかくキャッチャーでずっとやってきたのに、なんで俺がセカンドやねんって思いました。ある時、シートノックを受けていて、回り込んで体の正面で取らないといけないところを片手で取りに行ったんですよ。そしたら次に自分の番が回ってくると、外野に打って「取ってこい!」と言われたんです。それを20~30分くらい繰り返されました。僕もさすがに腹が立って、怒りのあまり取ったボールを監督めがけて思いっきり投げたんです。

司会:えっ、当たらなかったんですか?

HARTY:監督の顔の前をビュンと通過しました。そこから半年間、グラウンドに1回も入れてもらえず、外周の草むしりを命じられたんです。年明けくらいから夏の大会前まで、ずっとですよ。

司会:その間、練習はできなかったんですか?

HARTY:監督さんが寮に帰られた後に1人でグラウンドに入って、 学生マネージャーに手伝ってもらって練習してました。2人なんでノックを打ってもらうとか、1時間か2時間くらいしかできませんけどね。

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■「監督を信じよう」で選手が結束

司会:辞めようと思わなかったんですか?

HARTY:辞めようと思いましたよ。だけど、応援してくれてる人のことを考えたら、ここで負けたらあかんと思いましたし、自分に勝ってないなって思ったんです。これだけは自慢なんですけど、3年間居残り練習を1回も休まずにやり通しました。負けたくないっていうのと、応援してくれてる人に応えたいっていうのがすごくありましたね。

司会:よく耐えましたね。

HARTY:寮まで自転車で30分くらいかかるんですが、監督が寮で一緒に住んでたので、グラウンドから帰ったらご飯を食べる前に監督の部屋に行って「すみませんでした。練習に入れてください」と何度も謝ったんですが、断られ続けました。途中からお互い根比べみたいになってましたね。

司会:その間、体力が落ちたりとか、技術が落ちたりしたことはなかったんですか?

HARTY:間違いなく落ちてたと思いますし、香川まで野球をやりに来させてもらって、俺は一体何してんねんって毎日思ってました。

司会:チームメイトはどういう感じだったんですか?

HARTY: 結局、僕がチームに戻るきっかけをくれたのはチームメイトなんです。夏の大会前、岩上監督にチームメイトが「花田を入れてください、花田が必要です」と言ってくれて戻れたんです。今思うと、当時は傲慢でした。それまでエースで4番だったり、全てがうまくいってたんで、周囲への感謝もなかったんでしょうね。監督にはそういうことに気付かせていただき、感謝しています。

司会:全て見抜かれていたんですね。

HARTY:はい。最後の大会前に選手同士でミーティングをして、これだけ指導してくれてる監督を信じようと話し合ったのを覚えています。それまでは他の選手たちも色々思うところはあったんですが、どれだけ厳しいことをされても文句は言わず、してもらっているっていう気持ちに切り替えようと大会前に決めました。

司会:2003年夏の香川大会では快進撃で勝ち上がりました。

HARTY:まだ香川西は甲子園に出たことがなかったんで、ダークホースでした。僕は9番セカンドとかで出てましたね。優勝候補の観音寺中央を準決勝で破り、決勝の相手は高松南高校でした。

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■香川大会決勝、甲子園目前で痛恨のエラー

司会:香川大会決勝はどんな試合だったんですか?

HARTY:3点リードされていたんですが、9回2死から同点に追いつきました。後で話したんですが、みんな負けるわけがないと思ってたんです。これだけ苦しい練習をやってきて、負けるわけがないってみんな思っていたら本当に追いついたんです。延長11回表に1点勝ち越して6-5となったんですが、その裏のことは鮮明に覚えています。

司会:何があったんですか?

HARTY:あと3人抑えたら甲子園というイニングで、先頭打者のセカンドゴロが飛んできて、なんでもないゴロをエラーしたんです。それがきっかけで2死満塁まで行くんです。あの時は、これで甲子園に行けなかったら死のうと思いましたもん。だから最後の打者が三振でゲームセットとなった瞬間の景色は絶対に忘れません。

司会:平凡なセカンドゴロだったんですか?

HARTY:一、二塁間のゴロで、少し左に走って取りに行ったらグローブで弾いたんです。慌ててボールを取って一塁に投げたら大暴投でした。その後は今までで一番緊張しました。俺のところに飛んで来るなっていうマインドになってるんですけど。それに打ち勝つように俺んとこ来いって言わなあかん。本当に怖くて嫌でした。だから今になって札幌ドームで歌わせていただいたりしても、全く緊張しないんです。あの時の緊張感に比べたら全然です。

司会:勝ててよかったですね。

HARTY:実は、HARTYという名前は「誰にでも愛される歌手になりたい」という願いを込めて、HEART(ハート)からつけたんですが、エラーした時にスコアボードに点灯する「E」が嫌いなんで取ったんです。高校時代のトラウマがあるし、人生においてもエラーしたくないので、Eを取りました。「H」はヒットやホームランを連想するし、花田の頭文字でもあるんでHARTYにしたんですよ。

■ケガで伝令のみ…試合に出られず記憶から消した甲子園

司会:厳しい練習に耐え抜いて出場した甲子園はどうでしたか?

HARTY:それが、甲子園を決めた後、元々隠してた足のケガが限界に達して肉離れをしてしまったんです。歩くのもきついくらいで、背番号4から15になって試合には出られず、ベンチから伝令に2回行っただけなんです。でも、甲子園練習の時は、痛み止めを飲んでテーピングをぐるぐる巻きにしてノックを受けたのを覚えてます。まず新庄さんが守っていたセンターに走って行って芝生を触ってからセカンドの守備位置に就きました。

司会:甲子園は違いましたか?

HARTY:やっぱり応援してる観客の人たちの熱が違います。ブラスバンドの応援も凄いし、大観衆が入った甲子園を1塁ベンチから見ていたらグラウンドが揺れてたような記憶があります。焦点が合わないというか。

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司会:結果はどうだったんですか?

HARTY:埼玉の聖望学園に4-17で負けました。負けた悔しさと、自分が出られなかった悔しさでいっぱいでした。甲子園が決まって背番号4で県大会に出ていたので、地元はお祭り騒ぎになったんですよ。岸和田の実家の近所では「花田裕一郎くん、甲子園出場でおめでとう」と横断幕が飾られたり、当日も観光バスで応援に来てくれたんです。それなのに試合に出なかったんで、申し訳ないことをしたなという思いでした。これだけ野球に取り組んできたのに、甲子園でこんな恥をかかされるのかっていう気持ちでしたね。だから本当に5年前くらいまで、甲子園のことは記憶から消してたんです。

司会:土は持って帰ったんですか?

HARTY:持って帰りましたけど、どこにあるか分かりません。試合が終わってアルプスにお礼に行ったら地元の友達とか親とかが見えたんです。せっかく来てもらったのに、試合に出ず、ボロ負けして、すごく申し訳ないし、悔しかったんです。今思うと、甲子園に出られるだけでもいいと思えるんですけど、その時は悔しくてたまらなかったです。そんなこと言ったらベンチに入れなかった選手もたくさんいるので申し訳ないですけど、いい思い出ではなかったです。悔しくて記憶から消し去りたかったですね。

※後編に続く

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