スイス、略奪美術品への対応にようやく本腰 政府内に専門部署

2014年にベルン美術館に遺贈されたコーネリウス・グルリットのアートコレクションで所有権問題の調査を7年にわたり指揮したニコラ・ドル氏。今後はスイス政府内の責任者として難題に取り組む (BAK/Annette Koroll)

スイスは大戦中にナチスに略奪された美術品の出所調査を本格化するため、政府内に専門部署を新設した。責任者に就いたのはベルン美術館でグルリット・コレクションの出所調査を指揮したニコラ・ドル氏。長らく曖昧にされてきた略奪美術品問題が、大きく進展すると期待が広がる。

10年前、ドイツ人美術商コーネリウス・グルリットがスイスの首都にあるベルン美術館にアートコレクションを遺贈したというニュースは、世界中の耳目を集めただけではなく、スイスのナチス略奪美術品政策に大きな転機をもたらした。その成り行きを最前線で見ていたのが、ベルン美術館で7年にわたり同コレクションの出所調査を率いたニコラ・ドル氏だ。

同氏は今年4月、連邦内務省文化局略奪美術品及び出所調査部門の責任者として新たなスタートを切った。ナチス略奪美術品と植民地時代の文化遺産の出所調査を司るほか、文化財の所有権紛争を裁定する第三者委員会の事務局を務め、出所調査のためのオンラインのプラットフォーム開設も担当する。

ドル氏は、ベルン美術館が国内美術館として初めて設置した出所調査の専門部署で責任者を務めた。swissinfo.chとのインタビューで「最初から最後までやりがいと刺激があった」と語った。連邦文化局での仕事については「視点が変わること、対象が(ナチス時代から)植民地時代にまで広がることが楽しみだ」と意気込みをみせた。

同氏の任命はスイス政府の姿勢の変化を象徴する。第二次世界大戦終結から80年近くが経った今、ようやくナチスの略奪美術品に対する責任を果たすことに本腰を入れたのだ。また年内に発足する第三者委員会は、ワシントン原則が四半世紀の時を超えてようやくスイスで実現することを意味する。同原則は署名各国に「所有権問題を解決するための代替的紛争解決メカニズム」の確立を求めるが、拘束力はない。

略奪美術品取引の中心地

スイスは、1998年にワシントン原則に同意した44カ国の1つだ。同原則は美術館が出所調査を行ってナチスが押収した美術品を特定し、元の所有者たるユダヤ人収集家やその相続人と「公正かつ公平な解決策」を探るよう求める。しかし、長い間スイス政府に目立った動きは見られなかった。

独仏英蘭及びオーストリアが既に20年以上前に返還請求の審議を担う委員会を設置したのに対し、スイスではその対応を個々の美術館に任せてきた。ナチスに占領されなかったスイスに略奪美術品はほとんど存在しない、という考えが政府にあったからだ。だが、戦前から戦中のスイスは事実上、ドイツから流入した美術品の取引拠点と化していた。

ドル氏は「ベルン美術館がグルリットの遺産を受け入れたことが、略奪美術品に関する新たな国内議論につながった。物事が勢いづいた」と振り返る。

グルリットは問題のコレクションを父親から受け継いだ。父親はアドルフ・ヒトラーに協力していた美術商で、購入品には没収や売却強要によりユダヤ人から奪った作品が含まれていた。ドイツの税関当局が、グルリットが住んでいたミュンヘンのアパートで大量の絵画を押収したのは2012年のこと。コレクションの発見は世界的なニュースとなった。

2014年、グルリットの死でコレクションを遺贈されたベルン美術館を運営する財団は、受け入れにちゅうちょした。「きわめて難しくデリケートな問題の宝庫」であり「責任の重さは計り知れない」と考えたためだ。

法的解釈の問題

問題の1つは、「Fluchtgut(逃亡資産)」に対するベルン美術館の対応が他の国内美術館にどんな影響を及ぼすか、という点だった。ナチス時代に生活手段と家を失ったユダヤ人が、逃亡あるいは新天地での生活の資金とするために売却した美術品はスイスで逃亡資産と呼ばれる。ドイツでは「迫害による損失」とみなされ、返還を請求する者との間で「公正で公平な解決」が図られねばならない。スイスでは、強要により売却された美術品に対する所有権請求は却下されるケースが多かった。

ドル氏は「ドイツでなら略奪品とみなされるであろう作品が、スイスではそうとされない危険があった」と話す。同氏は、ニナ・ツィマー・ベルン美術館館長と同じくドイツ人だ。「このためスイスで異なる評価法を取る美術館が現れた場合、それを無視することはできない」

事実、逃亡資産という言葉が問題視され始めた。当時スイス政府で文化を担当していたイザベル・シャソ氏は、この用語はスイス独自のもので使用を避けるべきだと指摘した。スイス政府の公式見解によると、売却が「押収」に当たるか否かは個別に判断しなければならない。

ビュールレ問題

グルリット・コレクション問題を機に、ナチス略奪美術品に対するスイス政府の姿勢に変化が訪れた。ドル氏によれば、それは「出所調査の必要性に対する政治的感度」が高まるきっかけだった。

2016年には、出所調査に対する助成金が導入された。初回資金を割り当てられたプロジェクトは12件。直近は28件となっている。プロジェクトの半数がナチス略奪美術品を、残り半数が考古学的あるいは植民地時代の取得品を扱う。ベルン州でも今年から出所調査への助成が始まった。

国庫助成の開始に伴い、出所調査の専門家の数も雇用も増加した。2020年には専門家の国内組織まで立ち上がった。

しかし、政府内の専門部署や第三者委員会の新設に至ったのは、ビュールレ・コレクションを巡る世論が火付け役となった。故エミール・ゲオルグ・ビュールレはナチス・ドイツに武器を売った実業家で、略奪美術品の購入でも知られる。

2021年、チューリヒ美術館が新館でビュールレ財団からの貸与品の常設展示を始めると、財団による出所説明に一部偽りがあるという非難や、コレクションの歴史の不名誉な点をより正確に反映した展示にするべきだという非難が殺到した。財団が行った出所調査については今夏、第三者委員会が報告書をまとめる予定だ。

待望の施策

社会民主党のヨン・プルト議員は2021年末、新たな第三者委員会の設置を求める動議を議会に提出。「これによりスイスは、歴史の暗黒の一章への取り組みに対する貢献を果たし、ナチスの迫害によって失われた文化財に対処する責任にふさわしい行動を取ることになる」と述べた。

ドル氏によると、政府は年内にも9〜12人の委員会メンバーを任命する予定。政府通達では、委員会は請求者と現所有者の間の紛争に拘束力のない勧告を出すと規定され、個々のケースに応じて外部から専門家を招くことができる。

請求の提出先となる内務省文化局は、委員会に審議の実施を「勧告」する。通達によると、スイスに所在する、またはスイスで所有権の移転が発生した全ての美術品が審議の対象となる。植民地時代の遺産もナチス時代に略奪された美術品も審議を請求できる。

請求者は、出所調査を行い現所有者との和解を試みたと証明できれば、現所有者の同意がなくとも審議を申請することができる。

ユダヤ人団体は高評価

スイスを含む23カ国は3月、新たな「ベストプラクティス」協定に署名した。ワシントン原則であいまいな部分を明確化する目的で作られたこのガイドラインは、1933年から1945年の間に迫害の被害者により売却された美術品は「財産の強制的な譲渡に相当するとみなされる」としている。これを第三者委員会がどう解釈するかにより、略奪美術品への対処についてスイスの美術館は新たな課題に直面する可能性がある。

国際社会は、第三者委員会を設置するというスイスの決定を歓迎した。世界ユダヤ人返還組織とユダヤ人対独物的請求会議が3月に発表したワシントン原則の各国の履行状況に関する報告書で、スイスは「実質的な進展を遂げた」国のカテゴリーに入った。同報告書では7カ国が「大きな進展」を遂げたと評価された。スイスについては、所有権請求に関する手続きを確立できれば「近い将来、最高評価を得る国に加わるだろう」とみている。

編集:Virginie Mangin and Eduardo Simantob、英語からの翻訳:フュレマン直美、校正:ムートゥ朋子

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