チョークー和尚の人生いろいろ㉗ 雑草に学ぶ

 雑草さんも生きている、なーんて雅な心には、なかなかどうして、なれませんな。お寺の境内ともなれば、普通のお宅とは違います。草抜きの面積がなにしろ広い。

●抜けばさらに

 真夏に近づけば近づくほど、草々はぐんぐん成長します。とっても、とっても、いくらでも生えてくる。イタチごっこですなあ。仏道につかえる者としてはあるまじき感情が、めらめらと湧き起こってきたりもします。

 雑草は、抜かれるのを待ち構えているのだそうですね。種をばらまく機会であったり、競争相手がいなくなって芽を出すチャンスじゃん、と小躍りしたりするようです。道理で、抜いたらよけいに生えてくるはずです。

●冗談はほどほどに

 お盆の時季など、季節はもう秋のはずなのに、それはそれは猛暑で大変。比較的涼しい早朝か夕暮れ時を選んで作業をするのですが、それでも、もうおなかいっぱい、というぐらい日焼けします。

 檀家(だんか)の皆さんから「よろしいなあ。どこに行ってきたんですか」なんて声がかかります。「ワイキキビーチでサーフィンですわ」と笑い飛ばすんですが、皆さんも気をつけましょう、冗談って、通じないときがあるんです。

 「なるほど、住職さんはサーファーだったんですか」

 いやいや、そうではございません。あしからずご了承ください。

●雑草という草はない

 先日の草取りの際、これは、と感心したんです。ひと口に雑草と申しましても、いろんな種類があるものです。これぞ雑草というストロングスタイル、これまたかわいい花ですねえ、これはこれは奇妙だねえ、と見かけだけとっても多種多様。すっすっ、と抜きやすいのがある一方で、地面に張り付くように強情なのもありますわ。

 偉大な植物学者牧野富太郎さんが言うように「雑草という草はない」。愚僧が適当に定義づけて切り捨ててきたのであります。もちろん、その定義は世間の常識から大きく外れているとは思いませんが、仮に学術的に貴重な植物に行きあたっても、ぞんざいに扱ってきた可能性はありますね。

 名前を知らないというのは、それを他の物と区別ができないということです。ボクには雑草としか見えませんが、実はそれぞれ、確かに生きているのです。

 抜かれればよけいに生える生存戦略などは見事ですよね。いわゆる雑草たちの、このしたたかさ。見倣いたいものです。

●わが寺でも

 屋久島や白神山地のような世界遺産もすごいですが、わが現福寺の庭でも、さまざまなる生命の営みが繰り広げられています。ひそやかに、と言いたいところですが、愚僧が気づいていないだけですね。

 雑草も先生です。いろんなことを教えてくれます。日々修行です。でもね、夏の草取りはかなりの難行でっせ。真理は苦しみの向こうにあると信じ、愚僧チョークー、本日も草取りにいそしむのであります。でも、あれま、ぽつりぽつり、と。ありゃら。合掌。

 人生とはなんぞや。この深い問いに、人様以上に悩み多きチョークー和尚が答えます。役に立つか立たないか、読み手次第、あなた次第。肩のこらない相談室です。

 相談をお寄せください。宛先はデジタル報道部デスクdgdesk01@topics.or.jp 採用された方にはチョークー和尚が住職を務める現福寺(小松島市)特製Tシャツをプレゼントします。サイズはM・L・LLの3種類があります。

 福島聴空(ふくしま・ちょうくう) 高野山大卒。元高野山米国別院駐在開教師。高野山真言宗現福寺(小松島市)住職。令和元年から「仏教をうたう」と題した音楽活動を展開。1962年生まれ。大阪市出身。

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