戦後79年の「慰霊の日」。県内各地で追悼式が執り行われ、多くの人が戦没者の冥福を祈り、恒久平和を願った。太陽が容赦なく照り付ける中、糸満市の「平和の礎」や「魂魄(こんぱく)の塔」では、日傘を差した遺族らが、花や線香を供えて手を合わせた。戦争で命を落とした家族の思い出を子や孫に聞かせる姿も。20万人を超える犠牲を出した沖縄戦の記憶をつないだ。
一中健児之塔
那覇市首里金城町 730人
久高安進さん(95)=那覇市 一中の同級生は70人ほど亡くなった。貴重な青春も戦争で無駄になってしまった。真壁村(現糸満市)で戦死した兄の遺骨は、いまだ見つからない。辺野古の埋め立てに南部の土砂を使う計画には、身の毛がよだつ思いを抱いている。
白梅之塔
糸満市真栄里 約100人
武村豊さん(95)=那覇市 戦時中は、ひものようなイモなどを拾ってきて、友達や子どもと分け合った。戦争はしたくなかったけど、間に合わなかったね。私にできることは戦争体験を少しでも伝えていくこと。きょうは、同窓生たちに会えて感動している。
那覇商高和魂の塔
那覇市松山 約350人
儀間秀子さん(94)=那覇市 戦争で父母、兄2人と弟1人の家族全員を亡くした。誰一人、骨も戻ってきていない。兄が祭られた塔へ毎年足を運んでいる。何とも言えない気持ちで手を合わせた。戦争を忘れたことはない。二度とないようにと、若い人に伝えたい。
南洋群島慰霊碑
那覇市識名 自由参拝
宜野座朝美さん(84)=那覇市 4歳の時、パラオで戦争に遭った。引き揚げた沖縄でも多くの人が犠牲になった。「慰霊の日」は亡くなった子どもたちが一番欲しがった水を真っ先に供えている。南洋群島帰還者会の活動も次世代が引き継ぐというので一安心だ。
海鳴りの像
那覇市若狭 約100人
松田京子さん(82)=名護市 父は1943年12月、米潜水艦に撃沈された「湖南丸」で亡くなった。まだ30代後半だった。自分もいまだに爆撃機の音は耳にこびりついている。年を重ねるごとに、若い人に平和の大切さを伝えなくてはとの思いが強まっている。
積徳高女追悼法要
那覇市松山 9人
知念栄仁さん(70)=八重瀬町 父の妹の1人(知念ヨシ子さん)が積徳高女で、動員されて犠牲になった。毎年のように孫を連れて来る。南西諸島に自衛隊が配備強化されている現状をみると、これからの世の中がどうなるのか心配。平和であるよう願っている。
ずゐせんの塔
糸満市米須 自由参拝
屋宜ヒデさん(97)=読谷村 慰霊塔には後輩や先生の名前が刻まれている。卒業後に戦争が始まったので看護隊に加わってはないが、後に仲間たちが亡くなったのを聞いて本当につらかった。青春を奪われたと思うと悔しい。愚かな戦争を許してはいけない。