昼休みに突然「校長室に行ってくれ」 進学を覆した指名…“条件付き”の西武入り

元西武・笘篠誠治氏【写真:湯浅大】

元西武・笘篠誠治氏はドラフト前に明大入りが内定していた

1983年から西武一筋で15年間プレーした笘篠誠治氏は、高い守備力と俊足を生かした名脇役として黄金時代を支え、引退後も5球団で計22年間コーチを務めた。大阪・上宮高でプロ注目の存在となったが、明大進学を予定し、プロのスカウトには辞退の意思を伝えていた。ところが1982年ドラフトで西武からまさかの2位指名。熟慮の末に“期間限定”でのプロ入りを決断した。

上宮高での過酷な野球部を引退し「プロに行けるなんて思ってもいなかった」という笘篠氏は、難波で友人と遊び呆けていたという。夕方になり帰宅連絡の電話を入れると母から「アンタ、どこいんの! 監督さんから電話がきて明日、明治のセレクションを受けに行けって。明日、東京よ!」。野球部の山上烈監督に東京六大学への憧れを伝えていたところ、明大への繋がりがあり、急遽、セレクションが決まったという。

「特に明治を希望していたわけではないのですが、神宮球場でお客さんが満員になる東京六大学野球には憧れていました。そのなかで監督さんが、明治に連絡できるツテがあったみたいなんです」

明大のグラウンドに着くと面倒を見てくれたのが元巨人、現在は明大のコーチの福王昭仁氏だった。正式なセレクションは夏の甲子園終了後に行われていたが、すでに終了していたため参加者は笘篠氏だけ。「福王さんから『島岡吉郎監督は正月でも午前3時からドラム缶に火を日を焚いて部員を待っている』とか、かなり厳しい話を聞かされたんです。六大学の華やかなイメージがあったので、高校より凄いのかよ、と思いました」。

それでも実技を終えると島岡監督から「野球の方は大丈夫だから、しっかり勉強しておけ」と“内定”をもらった。はっきりと合格と言われたわけではなかったが、入試テストで大失敗をしなければ合格できると信じ、過去問題集をやりながら夏休み明けに母校の練習に参加するようにした。

「大学にいって4年後に指名される確証はなかった」

2学期が始まると、大洋(現DeNA)をはじめ「次から次へとスカウトが家に挨拶に来たんです。西武以外の11球団がきました」。それでもプロをまったく考えていなかったこと、六大学への思いが強かったことから「多分、明治が決まっているので、4年後に縁がありましたらお願いします」と断っていた。指名後の辞退で迷惑をかけたくなかった。

幼少期から大卒は志していた。バレーボールの実業団でプレーしていた両親はともに大学には進学していなかったため、父親からは就職を見据えて大学に行くように言われて育ったことも影響していた。

迎えたドラフト会議当日、4時間目後の昼休みに慌てた様子で教室に入っていた教師が「笘篠いるか? 今から校長室に行ってくれ」。「はあ!? 俺なんか悪いことしたかな」。恐る恐る校長室に入ると「西武が2位でお前を指名した。記者会見するから」。まさかの事態だった。

西武は12球団で唯一、スカウトが自宅に挨拶に来なかったが、野球部の練習グラウンドに現れ、笘篠氏の塁間のタイムなどを計っていたのだという。緊急の家族会議で、大学卒業にこだわっていた父からは「これはお前の人生。お前が決めろ」と決断を託された。

悩んだ末に決意した。「大学にいって4年後に指名される確証はなかった。なので大学に4年間行ったつもりで西武に入団させてくれ。4年で1軍の選手になれなかったら辞めて大阪に帰って勉強して大学に入り直す」。“期間限定”での西武入りへの腹を決めた。父も「分かった。じゃあ、契約しろ」と認めた。

「僕はそんなにすごい選手ではなかったんです。ただ、2年生の時に出場した春の選抜大会でホームランなど、そこそこ打ったんです。スカウトの人たちはそこでリストに入れてくれたみたいですけど、まさか自分がドラフトにかかるなんて、まったく思っていなかったですよ」

4年間で一人前の選手になると心に決め、後に15年間西武でプレーするユーティリティープレーヤーが誕生した。(湯浅大 / Dai Yuasa)

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