テレビ長崎未来ダイバー 将来の進路希望は”世界征服”だった少年が”老舗の建設会社”を動かし続けている。

MY ROOTS 〜あなたの人生を深掘りさせて下さい〜
誰にでもある、過去から今に至るまでの物語。
「人」にフォーカスし、人生のROOTSを探ることで見えてくるその人の考え方や生き方は
誰かの生きる糧にもなるはず。
「長崎の人」のROOTSを一緒に探しましょう。

MY ROOTSの記念すべき第一回目を飾る「人」はこの方です。

中村友久さん

長崎県大村市生まれ。現在、株式会社平山組の常務取締役。
高校生まで大村市で過ごし、大学進学の為、関東へ。
その後、25歳の時に大村の実家へ帰ることを決意。家業の平山組へ入社。
2018年4月、常務取締役就任。

株式会社平山組
長崎県大村市に本社を構える建設会社。
総合建設業、一般建築設計、土木工事の設計・施工管理などを手掛ける老舗企業。

[ WEBページ Instagram](https://www.instagram.com/hirayamagumi/)**

橋本:今日は中村さんの人生を深掘りさせて頂きます。よろしくお願いします。

中村さん:よろしくお願いします。

橋本:早速ですが中村さんのご家族の事を教えていただけますか?

中村さん:父、母がいて私が長男で弟が2人います。兄弟は3歳ずつ離れています。

ほとんど家にいなかった経営者の父

橋本:ご両親はどんな方なんですか?

中村さん:物心ついた時から父は平山組の社長をしていました。家の横に会社があって社員の皆さんが身近にいるのが当たり前でした。景気がいい時代だったので社員旅行などにも一緒に連れて行ってもらいました。

その環境で育ったので、自然と小学生の時の将来の夢は「社長」と書いていましたね。

当時の父は家にはほとんどいなくて、家にいる時の父はリビングでタバコを咥えながら仕事をしていました。リビング中がタバコの煙で白くなり父の姿も見えない程でした。その煙の奥で難しい顔でパソコンに向かっている姿が記憶に残っています。

父は運動会に来てくれたり、お出かけなどに連れて行ってくれた記憶はあるんですが、僕らとは普段はコミュニケーションが多くはなかったですね。
今、自分自身が同じような立場になって当時の父の苦労も理解できるようになりました。

母の教えは「できないのは努力をしていないだけ」

中村さん:母は、私が喘息持ちだったので、幼稚園の時に水泳が治療になると考えて通わせてくれました。私も水泳の記録が伸びたり、大会に出て1番になるのが楽しかったので続けていました。
母は何でも「ちゃんと」させたい人だったんです。だから、水泳以外でも縄跳びが他の子は出来ているのに私が跳べないとなれば、徹底的に100回跳べるまで何時間も教えて、跳べる癖を覚えさせていました。母はその他の事も同様に出来るまで教えてくれました。きっと私に成功体験を積ませていたんだと思います。

いつも母は言っていました「出来ないのは努力をしていないから」と。

今思うと、きっと母も、私が平山組の長男だからしっかりさせないといけないというプレッシャーや責任があったのだと思います。

写真(中央)中村さん


幼少期ー中学生

橋本:中村さんはどんなお子さんでしたか?

中村さん:母は「優しい子」だったと言っていましたね。

当時、「ビックリマンシール」が流行っていたのですが、友達から、私の持っているキラキラ光る天使のシールが欲しいと言われて、人気のない悪魔のシールと交換させられても嫌な顔もしないで渡していたそうです。そのことで友達を嫌いになったりする事もなかったみたいです。

あと幼少期から中学1年生までずっと太っていたんです。でも運動は好きだったので水泳も続けながらサッカーも習っていました。動ける肥満児でした。笑
小学4年生の時に、バレー部の先生から僕を含め何人かの友人たちが上手く誘導されてバレー部に入ることになったので、サッカー部は辞めました。その時のサッカーの顧問の先生が僕に「もったいないなぁ。お前みたいにコツコツとやれる奴は伸びるのになぁ」と言ってくれましたね。その言葉は覚えていますね。

橋本:勉強は得意だったんですか?

中村さん:小学校の時は宿題も真面目にやってテストは100点ばっかり取ってました。勉強が嫌という感情は全くなかったですね。だから宿題をしっかりやっていればテストは100点が取れるんだと思っていました。

橋本:中村さんは根が真面目な子だったんですね。

中村さん:母の教育の影響が大きいんだと思います。長男だったので弟達の面倒を見ることも当たり前でしたし、ちゃんとしないといけないという意識が高かったんだと思います。「お兄ちゃんだからちゃんとしなさい」という言葉が日常でした。だから宿題もちゃんとやるのが当たり前だったのでテストも100点を取ることが特別という感覚はなかったです。

橋本:お母様に反抗したいという感情はなかったんですか?

中村さん:全くなかったですね。大人が言うことは正しいと思っていたので、反抗するという感情は生まれなかったですね。言われたことはきちんと遂行することが当たり前と思っていたので。

真面目な自分が嫌になった思春期

橋本:真面目で頑張り屋の小学生の中村さんが中学生になって何か変化はありましたか?

中村さん:中学生になって早々に勉強で挫折しましたね。簡単に100点が取れないし、上には上がいるという現実を知りました。私の中学校は2つの小学校が一緒になるので、その中でどんな人間なんだろうと互いが探り合うんです。そこで「真面目な人間」にカテゴライズされるのが嫌でした。だから学級員長をやるとか、正しいことを正しいと発言するみたいなことが何か違うなと感じたんです。
更に中学2年生になると「美意識」が生まれてくるので、みんな休み時間になるとトイレに行って髪をクシで整えたりしていたんです。その中に太っている自分がいて、ふと「このままだと人生、損するんじゃないか」と突然、思ったんです。その時の瞬間を明確に今でもシーンとして記憶に残っています。

1ヶ月間で20kgのダイエットに成功!人生が一変する

橋本:人生を損すると思って、具体的に何をしたのですか?

中村さん:1ヶ月間で20kg痩せました。一日一食にして、運動をひたすら繰り返して痩せました。最後の方は拒食症のような状態だったと思います。
痩せた自分になった時に「ここからが本当の人生のスタート」だと感じました。今までの自分は「マイナスだった」と思いましたね。体型がスマートになりビジュアル面も変わり人生が大きく変化しました。そこからますます美意識を持つようになりました。

その当時、音楽が好きだったので楽器をやりたいと思ってギターを始めました。


中学生ー高校生

将来の進路は世界征服!本気で目指す高校生

橋本:中学生で人生の大きな変化があった後、中村さんの将来の進路選択はどうなっていくんですか?

中村さん:中学生までは将来、会社(平山組)を継ぐんだろうなぁと思っていたので、高校は工業に進学するのが自然な流れだなと思っていました。三者面談のタイミングで両親に会社を継ぐなら工業に行った方がいいよね?と聞いたんです。両親からは、会社を継いでも継がなくてもどちらでもいいと言われました。
会社を継ぐ以外の選択を考えたことがなかったので自分の選択肢が急に広がりましたね。だから高校も建築を学べる工業高校ではなくて普通科のある大村高校に進学することを決めました。

橋本:その時に中村さんは会社(家業)を継ぐ選択以外にやってみたいことはあったんですか?

中村さん:やりたいことはすぐに見つかりました。「世界征服」です。

写真:社内休憩スペース

橋本:はい!?世界征服ですか?世界征服って進路になるんですか・・・。

中村さん:中学3年〜高校3年生まで学校に提出するプリントの希望の進路の欄には「世界征服」と本気で書いてました。

音楽にも繋がっているんですが「ロックな人生」を生きたいと思ったんです。
もちろん、先生からはふざけていると思われて怒られることもありましたが私は至って真剣に「世界征服」を本気で考えていました。

それに早く、田舎から都会(関東)に行きたいと思っていました。

橋本:進路に「世界征服」と書いた人に初めて会いました。その後、高校ではどのように過ごされるんですか?

中村さん:高校に入学してすぐに、クラスメイトたちとのコミュニケーションをとる中で、関係性に違和感を感じました。無理にどこかのグループに属するのはやめて、一人でいたほうが楽だなと思ったので一匹狼のような感じでした。
別にみんなと仲が悪いという感じではなくて誰とでもコミュニケーションは取るような感じでした。あと、高校生になって本を読むようになりました。これまで全く興味なかったんですけど、太宰治の本などを読んでいました。当時、本質的な根っこの部分を知りたいと思っていましたね。

もう一つ、始めたことはその日に思った事をノートに書くという事です。自分の名言集みたいなノートです。

今でもそのノート持っていますよ!

高校生バンドが400名を集め、ライブを成功させる

中村さん:高校に入って、念願だったバンドを組みました。メンバーはそれぞれ違う高校に通っていてバラバラでしたね。高校2年生の時に人前で演奏したいと思って大村にある「シーハット大村」でライブをやったんです。400名ほど入れる会場だったので、自分たちでチケットを制作して、放課後などに商店街で色々な高校生に400円で売りましたね。その結果、当日、会場は満席状態でした。


大学進学へ

橋本:高校生でライブホールを借りて400名を集めるのはすごいですね!世界征服に近づいている気がしますね。この時は将来、音楽をプロでやって行こうと思っていたんですか?

中村さん:バンドでプロになるという考えはありませんでした。取り敢えずどこでもいいから大学に行こうと思っていました。関東に行くことが目的でしたので。
ただ東京は魔物が住んでいるから恐いというイメージだったので、神奈川か千葉の二択に絞りました。

大学を決める方法も、関東の大学がまとめられている本の中から、適当に開いたページの大学に行くと決めて2つ選びました。その内の1つは女子大でした。結局、残された千葉にある大学に願書を提出してその後、進学という流れでした。

橋本:いよいよ大村から千葉に進出して世界征服が動き出しそうですね。大学では何をされたんですか?

中村さん:大学ではゆるいフォークソングのサークルに入りました。あと人生初のバイトを始めました。働く=「労働」との出会いですね。
バイトで同じ日に働き始めた別の大学に通う学生もいたんですが、スタートは一緒だから評価を上げる為に、誰よりも大きな声で早く返事したり、人の倍の皿を洗ったりすればよいと考えて実行していたら、予想通り、私に対する評価が上がりましたね。その時は働くって楽勝だなと思いました。

橋本:大学でもバンド活動はされたんですか?

中村さん:大学2年生の時に後輩から声をかけられてバンドを組むことになりました。後にそのバンド仲間とずっと活動していくんですけど。でも相変わらず私の中ではバンドを仕事にしようという考えはなかったですね。
あとバンド以外で人生に影響を与えてくれた人がいるんです。バイト先の塾で出会った塾長さんでした。

その塾長さんは昔、音楽でメジャーデビューしたことがある人で、私に色々な事を教えてくれました。音楽のことだけでなく宗教や哲学の話などを面白く話してくれて、大学の授業より学びがありましたね。間違いなく今の人生の考え方などに影響を与えている人です。

橋本:大学生の時に就職活動はされたんですか?

中村さん:就職活動は全くしていないですし、就職という選択はなかったです。大学を卒業して、東京に近い方がバンド活動しやすいと思ったので、神奈川に引っ越しました。生活の為にアルバイトをいくつかやっていましたね。

橋本:就職しない選択も世界征服の為なのですか?

中村さん:その当時はバンド活動がもっとしたいと思っていて、生活をする為にバイトでそこそこ稼げたらいいかなと思っていました。
しかし、その生活も終わりが来ました。24歳の時にお世話になっていたライブハウスで、ライブに出演した後の打ち上げで飲み過ぎてアルコール中毒になってしまい救急車で運ばれたんです。その時に心臓が止まって、一度、命を落としかけているんです。
そしてその1ヶ月後にまたやってしまったんです。仲間とお酒を飲んで次のお店に移動している時に、ふざけて3mぐらいある高いところからジャンプしてお尻から落ち、背骨の骨が潰れて重症で入院しました。その入院中に色々な事を考えて初めて死ぬという事が恐くなりました。そこから実家に帰ることを決意して平山組に入社しました。これが人生初の就職です。

その瞬間に私の世界征服の企みは終わりました。


初めての就職

橋本:平山組に入社してまず何から始めたんですか?

中村さん:普通の流れだと、いずれ会社を継がせるために営業で業界の繋がりをつくるんですが、私は経理部に配属されました。社長の考えとしては、まずは会社の数字を知ることで、経営に必要な経験や知識をつけさせる狙いがあっただと思います。だから5年間は外回りの営業などはしてないです。
また、現場の作業員としての経験もほとんどしたことがないです。この業界では現場を知らないとダメ、みたいなイメージがあるんですが、実は社長である父も現場には立ってないんです。経営者として現場を知りすぎると正しい判断ができなくなるという考えがあったんです。

橋本:最後の質問です。今後、中村さんが会社の経営者になっていくと思うんですがどのような未来を描いていますか?

中村さん:イメージする経営者像はないですね。それが悩みでもあるんです。会社としてはあと5年で100周年を迎えるんです。記念すべき100周年を、私の大好きなTHE YELLOW MONKEYに祝って欲しいですね。だからどうやったら100周年に来てもらえるのか本気で考えてます!

写真:平山組オフィス

写真:平山組オフィス

中村さん:平山組としてはこの数年でオフィスも新しくなり、若い人材の採用も積極的に行なっています。このオフィスは社員同士のコミュニケーションの場でもあり、地域の方々との繋がりが出来る場所として考えたデザインになっています。
オフィスをきっかけに平山組を知って頂くことを重視しています。

写真:高校生に企業説明を行う中村さん

中村さん:平山組は公共事業がメインですが、今後は民間向けの建築事業も増やしていけたらと思っています。高校に企業説明会に伺った際に、建築を学ぶ生徒さんが、将来、両親に家を建ててあげたいと話す姿を見て、その夢が叶う道筋になれる会社になりたいと思いました。その為にも地域の方々や若い人に、平山組を知って頂く機会を更に増やして、若者に、建設業界なら平山組で働きたいと選んでもらえる会社づくりをこれからも行なっていきます。

ライター:合同会社晴々 橋本菜々

まとめ

取材を通して、中村さんは全ての物事に置いて「真剣」で妥協しないで取り組む方だと感じました。やると決めたら徹底的に追い込むというイメージです。1ヶ月で20kgの減量や、400名のライブを成功させる為にチケットを売り切るなど、幼少期にお母様が伝えていた「出来ないのは努力が足りないから」という教育が自然と中村さんの中に生きているのではないでしょうか。
これから平山組の100周年に向けて、中村さんがあらゆることにチャレンジし、実現していくのではないかとワクワクしています。また社長になった中村さんに取材をしたいと思います。

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